第61回:「体験を語りあう会 満州14歳と20歳」にて──「聞いてほしいなぁ。話さにゃ、いけんなぁ」(渡辺一枝)

 長野県の飯田市で、5月20日に「体験を語りあう会 満洲14歳と20歳」という集会が開かれた。主催は誰と特に名乗ってはいないが、私も編集委員の一人である『信州発 産直泥つきマガジン「たぁくらたぁ」』関係者が開催を決め、飯田市の有志が計画を立てて進めて実現した会だ。
 「78年前の1945年、14歳だった澤地久枝は、満州吉林市の女学生であった。20歳だった櫻井こうも同じ吉林省、水曲柳の開拓地でくらしはじめていた。そこで迎えた敗戦……ふたりの体験をお話しします」。こう謳って開催された会だった。

始まりは昨秋のこと

 きっかけは昨秋、飯田市のカフェ「アートハウス」で澤地久枝さんと櫻井こうさんが対面したことからだった。昨年11月25日に発行された『たぁくらたぁ』58号の特集記事は、「非戦・不戦・反戦」だが、その特集で私が真っ先に載せたかったのは、澤地さんへのインタビュー記事だった。澤地さんにインタビューを申し込むと快諾してくださり、「場所は長野にしましょう。長野で出している雑誌なのだから、東京よりも長野の方が良いでしょう。長野には会いたい人がいますから、私は長野まで行きますよ」と仰った。    
 澤地さんが会いたい人は、『たぁくらたぁ』に連載記事「アートハウスは交差点」を書いているアートハウス店主の櫻井京子さんのお母さん、櫻井こうさんだった。こうさんは、元満州開拓団員として吉林省水曲柳にいた。澤地さんは6歳の時に家族と共に渡満して、吉林の小学校を卒業して、女学校の3年時、1945年6月から7月にかけての1ヶ月間、学徒動員で水曲柳の開拓団に手伝いに入った。当時、こうさんは20歳、澤地さんは14歳だったが、この時の2人には接点も面識もない。
 澤地さんは父親が満鉄職員だったから吉林市の満鉄社宅に住んでいたが、学徒動員で開拓地へ行くまで、開拓団の暮らしに触れたことはなかった。開拓団から吉林の自宅に戻った後の8月15日、敗戦。難民として過ごして帰国してからの日々、水曲柳で会った女性たちのその後が、気に掛かっていた。また、断片的な記憶しか無い水曲柳での体験を確かめたくもあった。下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を訪ねた時、水曲柳に居た元開拓団の女性が語り部をしていることを知り、会いたいと願ってきた。それが、こうさんだったのだ。
 2022年9月14日、新宿駅から澤地さんと共に特急「あずさ」に乗って上諏訪駅で下車し、そこで『たぁくらたぁ』編集長の野池元基さんにピックアップしてもらって飯田のアートハウスへ行った。こうさんは元気な様子で迎えて下さり、初対面ではあっても既知の懐かしい人に再会したかのように、澤地さんと二人、手を握り合って親しく挨拶を交わし合ったのだった。そして、澤地さんはこうさんに水曲柳のことを尋ねた。
 こうさんの記憶は鮮明だった。こうさんの話を同席して聞いていた私が、「このような話を地元の高校生など若い人に話したことはありますか?」と尋ねたら、無いという返事だった。長野県からは多くの開拓団が満州へ行ったから、若者たちにこの体験を聞いてほしかった。「若者に話す会をしませんか」と提案すると、京子さんも野池さんももちろん即「やりましょう」と言い、澤地さんは「その時は私も来ます」と仰り、こうさんは「聞いてほしいなぁ。話さにゃ、いけんなぁ」と仰った(この経緯は『たぁくらたぁ』58号に掲載)。
 それから、場所や日程、参加者の募集やチラシ作成など全てを京子さんが引き受けてくださって、今年5月の会が実行されたのだった。

小学生から90歳代まで

 当日、会場の上郷公民館201号室は、参加者で埋まった。正面スクリーンを背にして右手の席には講演者のこうさんと澤地さんのお二人が座り、左に置いた席には進行役の三沢亜紀さん(満蒙開拓平和記念館事務局長)が着いた。最後のまとめ役の私は澤地さんの隣に座った。この登壇者たちを扇形に囲むように、小学生から20代までの若者たち20人が2列で座り、そこより後ろは大人たちがいっぱい。澤地さんが来ることを知って、澤地さんに会いたい、話を聞きたいという人たちが100人余り参加したのだ。
 子どもたちに参加して欲しい会だったから案内のチラシは学校や子どもたちが集まる場所に置き、大人たちに広く呼びかけることはしなかったのだが、大人からの問い合わせが殺到したのだった。それで当初はアートハウスを会場にしてアットホームな雰囲気で子どもたちに語ろうということだったのだが、会場を公民館に変えたのだった。
 初めに三沢さんが「満州といっても地理的なことなど若い人たちにはわからないかもしれませんから、お二人に話していただく前にまずパワーポイントで見ていただきますね」と言って、地図、満州国時代の首都だった新京(現長春)や吉林市、水曲柳開拓団の当時の写真などをスクリーンに写した。そして澤地さんの話にバトンタッチした。
 澤地さんは、1931年9月18日の柳条湖での満鉄爆破事件から語り起こした。日本の軍部によりでっち上げられた満州事変、それから上海事変も起き、満州国が建国されたこと、戦争へと突き進んでいったことを話し、自身の子ども時代と満州での体験に話を繋いだ。
 最前列には小学生が二人いたが、二人とも初めて聞く地名や言葉があっただろうに、身じろぎもせずにしっかりと目を見開いて澤地さんの言葉に聞き入っていた。そして澤地さんが「こうさんは、この頃どうだったの?」と振って、こうさんが話し始めた。
 「澤地さんが全部話してくれたでなぁ。私はなんも話すことは無いに」と言いながらも、ソ連軍が参戦してからの避難行を話し出した。
 「こんなに背が高いトウモロコシの葉っぱの間をな、こうやってサワサワと音がせんように小さくなってそぉっとな、隠れながら進んで、子どもや赤ん坊など、泣かせんようにしてな。ほいで北海道実験農場に避難して、そこにはじゃがいもなんかあったから、それを食べたに」
 こうさんは柔らかな飯田弁で、丈高いトウモロコシ畑を縫うように這うように隠れ逃れた逃避行を、身振りを入れて話してくれた。現地住民の襲撃など危険な目に遭いそうな時に、朝鮮人に助けられたこと。また、逃避行中に隣で寝ていた女性が、翌朝声をかけても返事がないので見ると、亡くなっていたことを述べた時には「神経がおかしくなっていただに、昨夜一緒に話してた人が亡くなったのに、悲しいなぁとか寂しいなぁなどと、ちょっとも思いませんでした」と、極限状態の中では正常な感情も失せてしまうと話した。
 こうさんの話を受けて澤地さんが、難民生活中の恐怖の体験が数十年経って蘇ったことを話し、それを受けてこうさんもまた語り、予定の1時間半をオーバーして、98歳と93歳のお二人は、満州と敗戦の体験談、その体験から揺るぎない平和への想いを語られた。再び戦争への道が開かれそうな不穏な空気が漂っている現在、戦後に生まれた「日本国憲法」をなんとしても守りたいと話された。
 質問は若者たちからだけ受けるということにしていた。質疑応答の時間になると、子どもたちは遠慮なのか物怖じなのか、はじめは手が挙がらなかった。スタッフに促されて、正面で聞いていたこうさんのひ孫の小学生が、「難しくてわからないこともあったけれど、話してくれてありがとうございました」と感想を言った。小学生が口火を切ってくれたおかげで話しやすくなったのか、そこからは中学生や高校生、20代の男性、中国からの留学生などからの質問や感想も出た。
 休憩なしで進めて終了時刻の3時を回っていたが、前列の若者たちは誰もが終始、真剣にこうさんと澤地さんの話に耳を傾けていた。最後に私が若い参加者たちに「今日の話は初めて聞く言葉があったり、難しくて解らなかったところもあったかもしれない。でもその解らなかったところを種のように大事に抱えていってほしい。そしてなんだろう、どういうことだろうと、その種のことを考え続けてほしい。そして今日家に帰ったら、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんに、戦争があった頃の体験を聞いてください」と話して閉会した。
 閉会後に戻ってきたアンケートが、とても素晴らしいものだった、回収率8割以上で、どの用紙もたくさんの言葉で埋まっていた。小学生から90代までが思いを綴ってくれていた。こんなにも真剣に聞いてくれる人たちが居たことが嬉しかった。下伊那郡は満蒙開拓で渡満した人がとても多い地域だ。そうした土壌の影響もあるかもしれないが、それでもこうさんと澤地さんの実体験からの言葉が、強く心に響いたのだと思う。
 伝えることの大切さを、改めて実感した日だった。

※この日の記録は次号の『たぁくらたぁ』に掲載します。ぜひ読んでください。

「あれも話せばよかったに。これも話し忘れたに」

 翌朝、帰京する前に澤地さんと一緒にこうさんを訪ねた。集会でのお疲れを労いたかったからだ。集会前日にアートハウスでお会いした時には「何を話せばいいんだか、考えると眠れんだに。ここでこうして話すにはいくらでも話せるけんど、大勢のお客さんの前で話すにはなぁ、話せんようでなぁ。昨夜も眠れなかっただに」と言うこうさんだった。私が「大丈夫、前にいるのはみんなカボチャだと思って話せば大丈夫です」と言うと、「そのカボチャがな、なんだかわさわさ話したりしてちゃ、カボチャと思えんだに」と言って、本当に翌日のことが心配でならないようだったのだ。
 でも当日はあんなにしっかり話してくれて、それに3人のひ孫さんを含め他の若い人たちが、しっかりと耳傾けてくれていた。一仕事終えて肩の荷を降ろした昨夜は、きっとよく眠れたのではないかしら。
 こうさんに会って「昨日はよく休めましたか」と尋ねると、こうさんは開口一番「あれも話せばよかったに。このことを話すのを忘れてしまっただに、と色々思い出してなぁ」と言う。「こうさん、じゃぁ、またやりましょう!」と言うと「そうだな、またやらにゃぁいけんな。100歳まで頑張らんと」と笑顔で仰るこうさんだった。澤地さんもそれを聞いて「私もまた来ますよ」と仰った。京子さんも野池さんもパチンとスイッチが入ったようだった。
 こうさん、京子さんにお暇をして野池さんに上諏訪まで送ってもらい、帰りの「特急あずさ」に乗った。澤地さんは「こうさんがああ言っていますから、集会で話すのは無理だとしても、また私たちはこうさんの話を聞きに来ましょう」と仰り、私は「ぜひ、そうしましょう」と応えた。こうさんにも澤地さんにも、お元気でいらしてほしい。そして私は、お二人の体験をしっかりとお聞きしておきたい。

●帰宅後に届いた本

 飯田から帰宅した数日後に、分厚いレターパックが届いた。20日の集会に参加された飯田市歴史研究所の調査研究員、本島和人さんからだった。本島さんが書かれた本『満洲移民・青少年義勇軍の研究—長野県下の国策遂行—』と、ご丁寧な手紙が同封されていた。
 同じ「満洲」と言っても、そこへの経緯や体験は、統治側の人間は別として、都市生活者と開拓団関係者では随分と異なるはずだ。「満州で生まれた子」の私は、もっともっと知らなければと思い、知りたいとも思っている。本島さんから送られた、吉川弘文館発行の350ページ余りのこの研究書を読ませていただこうと思う。そしてまた、澤地さんの『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』『もうひとつの満州』ほかのご著書からも満州を書かれた章を再読しようと思う。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。