第64回:2023年夏・被災地ツアー報告(1)「語られなかったこと」の中に大事な本質がある(渡辺一枝)

 2年前から、福島を訪ねる「被災地ツアー」を企画・実施しています。これまでは春と秋の年に2回行ってきましたが、今年は当初5月に計画していた春ツアーが、色々と支障が生じて7月に延び、夏ツアーになりました。7月6日(木)〜8日(土)の2泊3日で、訪問予定地は以下のようになっていました。

・帰還困難区域の浪江町津島
・浪江町の福島イノベーション・コースト構想関連施設
・双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館
・双葉町産業交流センター、屋上から中間貯蔵施設目視
・南相馬市小高の「おれたちの伝承館」
・請戸小学校震災遺構
・常磐線の双葉・大野・夜ノ森・富岡各駅舎、大熊町役場と周辺
・富岡町のとみおかアーカイブ・ミュージアム
・廃炉資料館
・コミュタン福島
・楢葉町の宝鏡寺「伝言館」

 ガイドは、浪江町から福島市に避難している元放射線作業従事者の今野寿美雄さんで、上記した場所をどの順で回るかは、今野さんにお任せしました。
 1日目、集合は福島駅で、この日の宿泊は南相馬市小高の双葉屋旅館。
 2日目、宿泊はいわき市の古滝屋旅館(館内の「考証館」見学も)。
 3日目、解散は郡山駅です。
 盛りだくさんの見学地ですが、「百聞は一見にしかず」で、二組のご夫婦が参加されました。
 暑さ真っ盛りでしたから、冷却ジェルシートや、首からかける冷却グッズなどのご用意をお願いしました。企画した本人が言うのも変ですが、濃密で、実り多い被災地ツアーでした。

1日目

防護服を着て帰る家

 福島駅に8時45分集合。今野寿美雄さんの出迎えを受け、今野さんの車に乗車。国道114号線で、浪江町津島地区にある今野さんの実家へ向かった。
 帰還困難区域だった津島地区の一部も今年の3月31日付で特定復興再生拠点区域として避難指示解除になり、除染されて立ち入りができるようになった場所もある。つまり、「帰還しても良いよ。帰っておいで」というわけだ。しかし今野さんの実家など、多くは依然として帰還困難区域指定のままだ。津島訴訟(※)の原告団長今野秀則さんの家の前を通ると、秀則さんが掃除をしていた。「こんにちは」と挨拶すると「ご苦労様」とツアーを労ってくださる言葉が返った。秀則さんはこのように時々掃除に帰ってくるが、生活拠点は避難先の大玉村に構えた新居だ。津島で代々続いた旅館を空けたまま、廃屋にできない秀則さんの胸の内を想う。

※津島訴訟…「ふるさとを返せ! 津島原発訴訟」。福島第一原発事故に伴う放射能汚染で住み慣れた土地を追われた浪江町津島地区の住民らが、国や東電を相手取り、原状回復と損害賠償を求めて訴えた裁判。福島地裁判決では損害賠償請求が認められたが、原状回復請求は退けられた。現在、仙台高裁で控訴審が進行中

 浪江町役場津島支所の近くには、平屋建ての真新しい復興住宅が10戸建ち並び、うち8戸は既に入居者がいるとのこと、2戸はもともとからの津島住民のIさんとKさんだ。Iさんの家の軒下にはモビールが風に揺れ、Kさんの玄関先には鉢植えの花が置いてあった。避難先から戻って生活拠点をこちらに移すのか、あるいは避難先はそのままで2拠点生活にするのか、お聞きしたいと思っている。他の6戸は移住者だという。この人たちの話も聞きたいと思う。役場の隣は警察署だというが、警官は常駐するのだろうか。週に一度、定時刻にイオンスーパーの移動販売車が回ってくるそうだ。
 津島中学校跡地のスクリーニング場に行き、そこで私たちは着衣の上から白い不織布の上下服を着て、キャップ、靴カバー、手袋、マスクをつけ、今野さんの実家への道を辿った。道の端にホタルブクロが咲いていた。道路に何か落ちていると思ったら、タヌキの轢死体だった。
 道路の分岐点にゲートがあり、係官に鍵を開けてもらって入る。帰還困難区域へ入るには、予め何月何日何時に誰と誰が入るなど、全員の氏名、連絡先、引率者の車のナンバーなどを申請する必要がある。そして各自身分証明書を携行して、ゲートの係員はそれをチェックする。係員はゲートに常駐しておらず、申請を受けた時刻に鍵を開けにスクリーニング場からやって来る。
 今野家のお墓がある赤宇木小亞久登の集団墓地をお参りし、今野さんのご実家へ行った。
 猪が体当たりして破ったガラス戸を開けて中に入ると、「見てください。これが原発事故から13年目の実態です。復興なんて嘘っぱちですよ」と、今野さんが言った。
 中の様子は、前回の被災地ツアー(昨年10月)の時よりもなお荒れていて胸が痛んだ。参加者たちは13年目の実情に息を呑み、また自分の家に入るのに申請の必要があること、白い防護服を身につけることなどなどにも、原発事故の惨さを身体中で感じたようだった。
 車を停めた路上に戻って白い防護服等を脱ぐ時に、今野さんは言った。「私が言う通りの順序でしてください。手袋はまだ外しちゃダメですよ。上着を脱いでください。脱ぐ時には、外側に触っちゃだめですよ。脱いだものは外が内側になるように丸めてビニール袋に入れてください。次は靴カバーです。これも外側を触っちゃダメですよ」などと、今野さんの指示通りに上に纏っていたものを脱いで袋にまとめ入れ、車に戻った。家の前の池の側には濃紫のアヤメが群れ咲き、草茂った道端には黄色いクサノオウが風に揺れた。道の端に「帰還困難区域 火気厳禁」の札があった。

解体ラッシュが始まるぞ

 スクリーニング場に戻り汚れ物の入ったビニール袋を係員に渡し、次に向かった。
 石井ひろみさんの家の前を通る。以前にひろみさんと来て中を見せていただいたことがあるが、明治初期に建てられた広い屋敷の台所には土で築いた大きな竈があった。だが野生動物が入り込んで、それも崩されてしまっていた。ツアーのこの日は外から伺い見るだけだったが、道路に面した何枚もの障子戸は、破れも見せず白く陽光を返していた。
 隣は菅野みずえさんの家。立派な通り門は藤蔓に覆われ、薮草が茂っていた。歴史を刻んだ「通り門」も、文化遺産に残したいと思えるものだったのに。
 テレビ番組で「DASH村」として知られるようになった地域に続く道には、まるで蕎麦畑かと見紛うばかりにヒメジョオンの白い花が一面に広がっていた。すでに建物が解体されて更地になったところもあった。津島の一部が特定復興再生拠点区域となって避難指示が解除されたことから解体業者の車が入れるようになり、きっとこれから2019〜20年の頃のようになるのだろう。その年浪江町では、帰還困難区域を除く居住制限区域と避難指示解除準備区域で建物の解体が始まった。それは解体ラッシュと呼べるような勢いだった。あの頃のようにこれから津島の解体ラッシュが始まり、山深い里の家々は、津波に襲われたかのように潰されていくのだろう。道端に、こんな看板が立っていた。「工事関係者の皆様へ 地元の方と挨拶をしましょう」。言いたいことはわかるが、そもそも地元の方が戻っていない、戻れない地域なのに。
 昼曽根の水力発電所を過ぎると大柿のまんま屋(食堂)で、ここのモニタリングポストは2.6マイクロシーベルトを表示していた。だいたいモニタリングポスト設置場所は除染をして砂利やコンクリートで遮蔽しているから、周辺の実際の線量よりも低い数値が表示される。関場健治さんの家への分岐は、草に埋もれて見えなくなっていた。草深い道の端に、ノカンゾウ、ヤブカンゾウが鮮やかなオレンジ色に咲いていた。
 解体が進めば、あたりはあっという間に更地になっていく。そしてまた、除染で出た土を詰めたフレコンバッグが積み上げられてゆくのだろう。

大きくのびた柿の木は

 大堀小学校跡地には、校歌に歌われた柿の木をはじめ何本もの樹木が残っていた。以前に歌声喫茶「ともしび」で開催された「浪江町の小学校校歌を歌う会」で、初めて聴いたこの歌詞が深く胸に残っている。

むかしから そのむかしから学校の やねも お空も つんぬいて
大きくのびた かきの木は みんなの そだつ 目じるしだ
遠い道 夕やけ雲の お山から 海までつづく たかせ川
あゆも かじかも かにさんも みんな なかよい おともだち
おじいさん おとうさんも かあさんも べんきょうしたのは この学校
わたしも あなたも あとついで みんなで ぐんぐん のびるのだ

 なんて伸びやかでおおらかな詞だろう! 校名を謳わずとも、学舎の在る豊かな自然環境が、子どもらを育むことを高らかに謳うような詞・ことばではないか。けれどもここは、原発事故によって汚染されてしまった。大地にも木々にも放射能が降り注ぎ、「あゆもかじかもかにさんも」被ばくしてしまった。7月初めの今、柿の葉は緑に茂っていた。秋にはたわわに実をつけるのだろう。食べることのできない朱い実を。
 大堀相馬焼の里である大堀地区の一部も特定再生復興拠点区域で除染されて、相馬焼の物産会館では時々イベントが行われるらしい。藤棚の木陰で作業員さんだろうか、一人でお弁当を食べていた。事故後は避難先で作陶をしてきた窯元さんも多いが、ここに戻る人はいるのだろうか。除染した場所は以前よりは線量は下がっていても安全とは言えない地だと思うが。窓の外に登窯が見えた。被災前からのものだろうか?

「復興」って、なんだろう?

 大堀小の校歌にあった高瀬川を渡って谷津田地区に入ると、目の届く先までずっとソーラーパネルが続いていた。その光景に後部座席から上がった「わぁ〜っ!すごい!」の声に、感情を殺した声で「驚くのはまだ早い」と、今野さんが言う。ハンドルを切った先にも続くソーラーパネルは、2枚のパネルの辺を合わせて蛇腹折のように組んで並べてあり、まるで黒い波のように見える。それを脇目に見ながら「パーネルは続くよ、どーこまでも」と節をつけて言った後で「2キロメートル続きます」と、今野さんは言った。黒く続くパネルの隙間の1ヶ所には数基の墓石が並んでいた。被災前には、田畑の一角に在る先祖の墓に見守られながら農作業をする暮らしがあった。原発事故はその日々を奪った。そしてその先に現れたのが、この黒い波で覆われた大地だった。
 国道6号線と常磐線の線路を跨いで双葉町産業交流センターへとつなぐ新しい道路建設の工事はかなり進んで、完成まではあとわずかなのだろう。このような道路建設もまた、復興予算を使って、ゼネコンを儲けさせるために仕組まれた計画に思えてならない。6号線や常磐線は、さほど信号待ちなどせずとも横切れるのだ。現にこの日も私たちは、ほんの数十秒待っただけで6号線を渡った。以前この道路に掲げられていた「復興シンボルロード」の標識は、いつの間にか外されていた。津波浸水域となった、被災前には畑や家があった場所に「東日本大震災・原子力災害伝承館」「双葉町産業交流センター」などが建設され、そこへ通じる道路がそう名付けられたのだ。初めて通ったときにそのネーミングに強い違和感を覚えたが、それはそのまま私の内では「復興」という言葉への不信感の種になっている。
 産業交流センターの手前に隣接する敷地の白壁に赤い楕円のマークの大きな建物は、岐阜県に本拠地のある浅野撚糸株式会社の「フタバスーパーゼロミル」で、今年4月から稼働しているタオル工場とショップだ。これもまた「福島イノベーション・コースト構想」の一環だ。この辺り一帯はこれからも他の企業の進出が続くのだろう。雇用が生み出され人口の流入が進むのかもしれない。そして、それを「復興」と称するのだろう。被災した元の住民の気持ちは置き去りにしたまま、「復興」は進められていく。
 産業交流センターの駐車場に車を停めて、交流センター内のフードコート「せんだん亭」で、昼食になみえ焼きそばを食べた。食券購入機で買うときに、今野さんから「量が多いから小にした方がいいですよ。小でもたっぷりですからね」の注意を受け、全員「なみえ焼きそば小」のチケット購入。浪江のソウルフードだ。
 食後、屋上に上がって、双葉町の中間貯蔵施設を上から眺める。2年前までは敷地いっぱいに積み上げられていた黒いフレコンバッグはほぼ全て搬出されて、この日はほとんど皆無だった。目の前に1棟、少し北側の木立の辺りにもう1棟、フレコンバッグの中身の分別作業場の白い建物だけが残っていた。空き地になったこの敷地にも、いずれは「福島イノベーション・コースト構想」として何かが建つのだろうか。

東日本大震災・原子力災害伝承館

 正直に言ってこの施設の展示物から学べるものは少ないと思っているが、展示室に至る螺旋の廊下の展示は、しっかりと記憶に留めておきたいと思っている。そこにある年表と写真は、近代日本の発展をエネルギー問題から考えさせてくれるからだ。展示写真は、まずは只見川の水力発電から始まる。年表に沿って水力、火力、原子力発電施設の写真があり、簡略に説明が添えられている。輝かしい建設記録だけではなく、例えば東海村JCOの臨界事故など、そこで起きた事故についての記録もある。当然ながら2011年東日本大震災と東京電力福島第一発電所の水素爆発事故についても説明されている。
 だから、150メートルほど続く螺旋廊下の展示写真と説明を読めば、「ふむ、ふむ」と歴史的流れは知れる。だが、およそなんでも、語られたことの陰にある「語られなかったこと」の中に大事な本質があったりするが、この年表でもそれは言える。だからこの写真年表を見ながらの、今野さんの説明が冴える。例えば、柏崎刈羽原子力発電所の写真の前では、2007年の新潟県中越沖地震で変圧器火災事故が起きたこと、ところが東京電力はこれを教訓にせず津波対策を怠ったことが2011年3月の事故に結びついたことを話す。
 年表写真の最後は、この「東日本大震災・原子力災害伝承館」建設が完成し2020年3月にオープンしたことを伝える写真と説明で終わる。「つまりここは、この伝承館が完成したことを伝える伝承館です」と、今野さんは言葉を結ぶ。博物館では、展示品についての解説を貸し出しイヤホーンで聞くことができるシステムになっていることがあるが、今野さんの解説による貸し出しイヤホーンを、ぜひ用意して欲しいものだと思う。
 館内は展示内容を様々に分けてコーナーが作られているが、今回のツアーでは時間の関係から全てを見ずに間を飛ばして、最後のコーナー「福島イノベーション・コースト構想」コーナーへ進んだ。ここの目玉はドローンだ。人が乗れるドローンの模型を展示してあった。これに乗って移動することを想像すればまるでSFの物語のように思えるが、少し深く考えれば、容易に軍事利用できるものだと気づく。科学技術の発展は、およそ何事もそうした傾向を持つのかもしれない。「気をつけよう! 甘い言葉と暗い道」という標語があったが、私の中では「気をつけよう! 復興という語の悪巧み」が、頭の中でリフレインしている。

棚塩地区

 かつて浪江町には「浪江・小高原子力発電所」建設計画があった。東北電力が計画していたもので、地元での反対運動が起きていたが、東北電力は建設用地として浪江町棚塩地区の土地買収にかかった。だが地権者の中に原発建設に同意せず売却に応じない人が居て、計画はすんなりと進まなかった。だが、棚塩原発反対同盟の委員長だったM氏が、東北電力と東北電力の意を受けた建設会社、また地元のブローカーに土地を売却してしまった。同時期に売却し他同盟員もいたようだが、最後まで売却に応じなかった人が2人いると聞いた。そして東北電力がいよいよ具体的に建設に動き出そうとした矢先に起きたのが福島第一発電所事故だった。これを受けて東北電力は原発建設計画を撤回し、買収した土地を無償で浪江町に返却した。
 浪江町は復興庁の立ち会いのもとで浪江町の復興まちづくりの推進に関する協定を、2017年3月にUR都市機構と結んだ。UR都市機構は、戦後の住宅不足解消に端を発し、都市再生事業、賃貸住宅建設、災害復興支援、灌漑展開支援などを行っている事業機関だ。
 URは、この協定によって「棚塩地区産業団地整備事業」を受託し、以下の事業を展開していった。そしてこの産業団地は各企業が自らの事業の使用電力は100%再生エネルギーで賄うことを謳っている。

「福島水素エネルギー研究フィールド」
 今野さん曰く「世界一、エッチ(H=水素)な工場」で、再生エネルギーを利用した世界最大級の水素製造施設だ。工場の周囲をソーラーパネルが囲んでいる。製造された水素は定置型燃料電池向けの発電、燃料電池車、燃料電池バスに利用される。

「福島ロボットテストフィールド 浪江滑走路」
 福島イノベーション・コースト構想に基づき福島県が南相馬市に整備した「福島県ロボットテストフィールド」には無人航空機エリア、インフラ点検・災害対応エリア、水中・水上ロボットエリアなどがあるが、浪江のここは長距離飛行試験のためのエリアになっている。

「福島高度集成材製造センター」(FLAM)
 浪江町の製材業者と郡山市の集成材事業者が共同で、福島イノベーション・コースト構想に基づいて株式会社ウッドコアを立ち上げて事業を起こした。県産木材(スギ、カラマツなど)から集成材(小さな木材を集めて成形した木材)までを一貫生産している。集成材は学校教育施設、道の駅、首都圏などの大型木造建築などに使われている。浪江駅周辺一団地の復興再生拠点市街地形成施設事業では隈研吾氏デザインでFLAMの建材が使われるという。

「復興牧場」
 棚塩地区の24ヘクタールの土地に牧場建設が予定されている。埋蔵文化財の発掘が済んで、これから建設にかかる。乳牛1000頭を飼育し、1万トンの生乳と堆肥を生産品目とする。ロボット、ICT(情報通信技術)を駆使し、自動給餌、搾乳機器、繁殖期を見極めるセンサーなど最先端技術を導入する。町が町有地に施設整備し、運営は県酪農業協同組合と全国酪農業協同組合連絡会、被災酪農家が共同出資する。県内63戸の休業中の酪農家のうち一部が参画するという。
 牧場建設費は100億円と聞いた。こうした復興事業には予算がふんだんに使われている。「復興」に疑問を呈するのはへそ曲がりと思われるかもしれないが、私には大いに疑問がある。住宅支援を打ち切られた避難者が、どんなに厳しい生活を強いられているかを思う。正規雇用の道がなく非正規の仕事を複数掛け持ちしてもなお生活は苦しく、子どもを残して自死した人もいる。「復興予算は避難者の生活再建のためにこそ使え」と言いたい。

小高へ

 復興牧場は建設用地を、他は施設外観を見た後で、東屋風のものが建つ小さな築山に上った。見下ろせば広い敷地にソーラーパネルが張り巡らされ、だが、中に一ヶ所小さな緑地が見える。そこは棚塩地区で最後まで東北電力に売却を拒んだ人の土地だ。なぜそこに緑地が残っているのか不明だが、持ち主が亡くなった後、名義変更ができないまま残ってしまった土地のように思える。
 震災遺構となった請戸小学校や、津波で被災した浜辺に建設中の「復興祈念公園」を車窓から見た後、綱を張って車の進入を止めてある一角で今野さんは車を止めた。そこから数メートル歩いて綱の中に入っても、最初はみんな気づかない。が、ふと黄色いセンターラインのずれに気がつくと「え〜っ!」と驚きの声が上がった。道路に亀裂があって、センターラインが左右に断絶して3メートルほどずれているのだ。地震で地中の断層がずれたのだ。自然の力の前には人為など小さなものだと思う。
 日は西に傾いていくらか涼しくなった道を、南相馬市の小高に向かった。幹線道路から外れて地元の人しか通らないような地方道だ。その道を行きながら、左右の山が無惨に赤茶けた土を晒している様を見る。このあたりは小高の神山地区という地域だが、山を崩して土取りし、採土した土を海側に運んで「復興祈念公園」を造っているのだ。なんと、罰当たりな復興祈念公園建設だろう。

おれたちの伝承館

 一週間後の12日に開館日を迎える「おれたちの伝承館」を訪ねた。つい数日前に山内若菜さんの天井画が設置されたばかりなのだ。私は、この絵が観たかった。そして参加者の皆さんに、この手作り美術館を知って欲しかった。ここは水道設備会社の倉庫だった建物だ。
 写真家の中筋純さんが言い出しっぺで「大事なことを伝承しない伝承館ではなくて、もやい展(中筋さんが主宰するアート展)に集まったアーティストが自分の表現手段で核災害を伝える作品を展示する『おれたちの伝承館』を作りたい」と言ったのは1年前のこと。多くの人が賛同して、もちろん私もその一人だが、初めは浪江町に作るつもりだった。だが予定していた場所が「福島国際教育研究機構(F-REI、福島の「復興」を進めることを目的に設立された国の機関)」建設に関わってくるので、そこでの開館は無理となった。また初めの一歩の場所探しからかと思われたが、年が明けて2月、南相馬の双葉屋旅館のおかみ・友子さんが仲を持ってくれて急遽、小高のこの場所に開設が決まったのだった。倉庫だった建物を、中筋さんはじめ、みんなで、業者の手は借りずに全て自分たちの手で美術館に仕立てようと動き出したのだった。
 まず初めは、不特定多数の来館者を予想しての徹底した除染作業。これには、白髭幸雄さんに助言と指導を仰いだ。白髭さんは、事故前から福島第一発電所内で放射能汚染密度測定の仕事に従事していた人で、原発事故後は原発作業員、除染作業員として勤務する傍ら、ボランティアで測定を続けている。その白髭さんの指導を仰いでの除染だから、生半可な作業ではない。作業にあたる人はみんな、白い防護服を身につけてキャップ、マスク、手袋をしての作業だった。暑い中で大変だったと思う。
 純さんから、7月末にある野馬追の開催日に合わせて開館すると聞いていたのが、予定を早めて7月12日に開館と通知が届いた時、7年前のその日を思い起こした。小高が避難指示解除になったのは、2016年7月12日だった。「おれたちの伝承館」が7月12日にオープンする、それはとても意味深いと思えた。
 ツアーの皆さんと一緒に訪問したこの日は、各地から集まった有志たちが当初の予定より早まった開館日を目指して懸命の作業中だった。室内には様々な工具が置かれていて、足をひっかけないように注意して中に入った。上を見上げたら、ああ、見事な天井画がそこにはあった。山内若菜さんの5メートル×7メートルの大作、絵の中の天翔ける白馬と馬上の赤い少女が真っ先に目に飛び込んできた。青い海原の脇を行く常磐線は車両を連ね、海の向こうに夜空が続く。ああ、あれは常磐線ではなくて銀河鉄道なのかもしれない。大地を覆う菜の花の中で、赤い少女が笛を吹く。眺めていると物語が浮かんでくる絵を、私はそこにあったゴザをコンクリートの床に敷いて、寝転がって観た。ゴザを動かして、絵の四辺がそれぞれ上になるように角度を変えて観た。観る方向で、また違う物語が頭に浮かぶ。
 力強く、生命感に溢れた若菜さんの大作が、ここ小高の「おれ伝」の天井に在る。私はそれを、とても嬉しく思う。一週間後の開館日、またこの絵に会いに来ようと思った。
 ツアー参加の2組のご夫婦には、開館前の「おれ伝」見学だったが、Tさんは「若い人はいいねぇ。好きな事をやれて、やっていて、いいねぇ」と言い、それは「おれたちの伝承館」開館という目標に向かってひた走るエネルギーを賛美する声だった。Mさんは「開館前のこの時期にここに来れてよかったです。皆さんが作業する姿からここにかける意気込みが伝わってきて、この施設が持つ意味がよくわかりました。オープンしたら、きっとまた来ます」と言った。

 1日目は「おれ伝」見学で終え、双葉屋旅館に荷を解いた。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。