第66回:2023年夏・被災地ツアー報告(3)当たり前にあると思っていたものを、私たちは失った(渡辺一枝)

 前回に続き、7月に福島を訪れた「被災地ツアー」の報告、最終回です。

3日目

考証館

 古滝屋での朝食後は出発前に、9階の「原子力災害考証館furusato」を見学した。ここは「原子力災害」について私たち一人ひとりが起きたことを知り、未来に向けてどのように行動すべきかを「考証」する場としての展示スペースだ。
 福島第一原発事故による被害は、それまでの価値観を根底から揺るがすものだった。豊かな実りをもたらす大地や豊饒の海、先人から受け継がれてきた文化、昨日もそして明日も続く日々の暮らし。当たり前にあると思っていたものを、私たちは失った。考証館の展示物を前に、私たちは何を取り戻すべきなのかを考える。
 畳敷きの部屋の真ん中に、浜辺に打ち寄せられた流木と砂に塗れたような小さなスニーカー、そして水色のランドセル。東日本大震災の津波で行方不明になった大熊町の少女、木村汐凪(ゆうな)さんのものだ。正面の壁には、汐凪さんの遺体を捜索するボランティアの写真パネルが大きく貼ってある。右の壁は浪江の駅前通りの写真が2段になって貼ってある。上下とも写真家の中筋純さんが同じ場所を写したものだが、上は2018年、下は2020年の写真だ。浪江町出身の歌人、三原由起子さんのご実家が写っている。そして歌人直筆の色紙が飾ってある。
 「二年経て浪江の街を散歩するGoogleストリートビューを駆使して」
 ツアー参加の二組のご夫婦は、どなたも日頃から原発問題に心寄せ、活動もなさっている人たちだが、考証館の存在はご存じなかったようだ。ここは公的な施設ではなく広く知られている施設ではないかもしれないが、とても大事な問題提起をしている場所だと思う。今回ご案内できてよかったと思った。

コミュタン福島

 いわきから三春に向かった。行く先は福島県環境創造センター交流棟の「コミュタン福島」だ。福島県が設置した施設で、「ふくしまの今を知り、放射線について学び、未来を描く」ことを目的にしている。リーフレットには、まるで「これでもか」というようにこの目的を表す文言が散りばめられている。
 「コミュタン福島はみなさんとともにふくしまの未来を想像する“対話と共創の場”です」
 「原子力災害からのふくしまの歩みを知って、学んで、環境との共生を共に考える。ふくしまだからこそできる未来の姿を描く
 あなたはどんなふくしまを描きますか?」
 「コミュタン福島は、ふくしまの現状や放射線・環境問題について、体験型の展示や全球型シアターなどで楽しく学ぶことができる施設です。
 皆さまの不安や疑問に答え、ふくしまの環境の回復と創造への意識を深めていただき、また、それぞれの立場からふくしまの未来を考え、創り、発信するきっかけとなる場を目指しています」
 A4の大きさを三つ折りにした、たった小さなリーフレットに、これだけの言葉が載っている。どれもほとんど同じことを言っている言葉が。
 ここは校外学習の場として、学校単位でバスを連ねて子どもたちが見学に連れて来られる施設だ。館内は1階がホールと多目的ラウンジと会議室、1・2階に展示室。展示室は6つのエリアに分かれていて、1「ふくしまの3・11から」、2「未来創造エリア」、3「環境回復エリア」、4「環境創造エリア」、6「触れる地球」、そして施設の目玉が5「環境創造シアター」で、「大迫力の映像と音響空間!」と謳っている「全球型シアター」なのだ。映像はコミュタン福島オリジナル番組と国立科学博物館のオリジナル番組とあるが、この日は国立科学博物館のオリジナル番組「人類の旅」と「3万年前の大航海」の2本だった。謳い文句通り、前後左右上下すべての全球形型スクリーンに映し出される映像の迫力は凄い! けれども、「だからどうなの?」としらける私は、臍曲がりなのだろうか。
 ここは来るたびに背中がざわつくような違和感・嫌悪感を覚えるのだが、けれども、だからこそ被災地ツアーには欠かすことができない場所だとも思う。

昼食後のサプライズ

 昼食は、三春名物の油揚ほうろく焼きと三春そうめん。
 車での移動とはいえ、ジリジリと暑い日差しの下を移動してきたから、冷たいそうめんが嬉しく喉を通る。そうめんの鉢と共にお盆に載っているほうろく焼きは、ブリキ製のほうろくがまだ熱を持っていたので、そうめんを食べてから箸を伸ばした。大きくて厚い油揚げには、山椒味噌が塗ってある。まだ焼きたての熱さの残る三角形の油揚げの、端を齧ってみた。厚さから想像したのとは違ってふわりと軽い食感で、山椒味噌の味と相まってとても美味しかった。見た時には三角形の厚揚げを思い浮かべ、こんなに大きくては食べきれないと思ったが、美味しくて軽く平らげてしまった。
 食事を済ませて、今野さんの車は山に向かい、カーブのある急峻な坂道を上っていく。今朝、宿を出る時に今野さんは私に言った。「コミュタンを見たら、その後で自由民権記念館に行きましょう」。願ってもない提案だった。私は三春にそうした記念館があることも知らなかったし、だからそこはツアーの予定に入れていない場所だった。
 今野さんからの提案に、5年前の冬、2018年1月13日に、三春の「デコ屋敷」で上演されたお芝居「天福ノ島」を観劇した日の感動が胸に蘇った。これは須賀川市に本拠地がある「NPOはっぴーあいらんど☆ネットワーク」が演劇プロジェクトとして取り組み、上演したものだった。
 幕藩体制が終わり近代国家への道を歩み始めた日本で芽生え始めた自由民権運動は、明治14年(1881年)には全国に広がっていた。そして土佐の板垣退助が率いていた西での運動に対して、東は三春の河野広中が牽引し「西は土佐、東は福島」と称された。三春は河野広中をはじめとして多くの民権家を輩出した地だ。
 はっぴーあいらんどの「天福ノ島」は、明治15年の福島を描き出していた。若き東北人たちが「おれらはおれらの希望を広げていく場所をつくる」と立ち上がり、しかし弾圧の火の粉が容赦なく降りかかっていった。広中の甥の河野広体、東北初の政治雑誌を発刊した琴田岩松らの活動とその時代を演劇と群舞で見せてくれたのだ。大野沙亜耶さんの脚本・演出も、また俳優たちの演技も踊りも素晴らしく、観終えた後の感動で私は、しばらく席を立てなかった。そして、これを東京でも上演して欲しいと願った。願いが叶って、同年7月7日、8日の2日間、大塚の「シネマハウス」で上演された。初日の上演後に私は、「民権ばあさんと妹(いも)の力」の演題で、明治時代に日本で初めて女性参政権を要求した女性民権家で高知県出身の楠瀬喜多(1836〜1920)のことと、古代日本で女性が持っていた力について話したのだった。
 山道を登る車の中で、5年前のそんなことを思い出していた。「三春町歴史民俗資料館」と併設の「自由民権記念館」に到着。折しも今年は河野広中が没して100年に当たるということで「河野広中没後100年記念特別展」開催中だった。遺品や写真、手紙や書など関連する展示資料から、広中の生涯や明治期の自由民権運動に思いを馳せた。
 歴史民俗資料館で展示してある資料類も素晴らしいもので、民衆の暮らしが如実に窺われた。このような資料館を開設して維持しているこの地には、かつての自由民権運動の精神が、今も脈々と息づいているかと思われた。
 当初の予定には無かったここを、ツアー最後の訪問地にしてくれた今野さんには感謝しかない。お陰でとても実り多いツアーになった。
 今野さん、ありがとうございました。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。