第67回:私の8月15日──戦争への道は、歩かない。戦争への道を、歩かせない(渡辺一枝)

 暑い夏。
 ことの他に暑い夏の日が過ぎていく。
 そしてまた、8月15日を迎える。
 この日は、初孫の誕生日だ。
 今年、彼は20歳になる。

 東チベットのニャンティ(林芝)に居た私が、米国・サンフランシスコに暮らしていた息子からの電話を受けたのは2003年8月16日の朝だった。ホテルを出て近くの食堂で朝食を済ませ、これからラサへ向かうところだった。ラサで数日過ごした後、西の聖山へ行こうと考えていたのだ。
 電話の向こうから「生まれたよ! 男の子!」、息子の声からは緊張が解けてホッとした想いも伝わってきた。「わぁ、おめでとう! 母子ともに元気ね? 良かった! 彼女に無理させないでね。秋になったら会いにいくからね」。電話口で応える私の気持ちも弾む。数日前から何度か連絡を取り合っていたが、息子の声はぶっきらぼうで苛立っているように聞こえていたからだ。
 2ヶ月後私たち夫婦は、孫に会いに行った。その時に私は、自分の迂闊さに気付いた。
 成田を10月8日の夕刻の便で発ち10時間ほど経ったのに、サンフランシスコに着いたのは同じ日付の昼前だった。時差があり日付変更線を挟んで時間を戻るのだということが、すっかり頭から抜けていたのだ。あの夏の日に息子から電話を受けた私は、孫の誕生日は8月16日と思い込んでいたけれど、そうではなくて、誕生日は8月15日だったのだ。
 それから5年後、息子たち家族は帰国した。孫は2人に増え、8月15日生まれの風太は5歳になっていた。幸い近くの幼稚園に空きがあり、入園できた。
 息子家族は我が家のすぐ近くに住んでいて、帰国後にももう1人孫が生まれたので、私は3人の孫たちの成長を間近で見てきた。そして年嵩の孫の風太は、今年20歳の誕生日を迎える。

 その8月15日を迎えて、20年という月日を思う。

 まだ息子家族がサンフランシスコに住んでいた2006年夏、風太の3歳の誕生日を一緒に祝いたくて、私たち夫婦が息子家族を訪ねた時のことだ。小さな林の脇を通った時に草叢を見詰めていた風太が、びっくりした表情とちょっと怖がっているような声で「バンミ居た〜ね」と、独特のイントネーションで言って母親にしがみついた。ゴールデンゲートブリッジの公園にピクニックに行った時のことだ。他の人には見えず風太にだけ見える何かを、彼は「バンミ」と命名していた。バンミは、時々彼の前に現れるらしい。
 それからも何度か私は、幼い声が「バンミ居た〜ね」と言うのを聞いた。翌年、里帰りしてきた日本で近くの神社に初詣に行った帰り道、公園の脇を通った時にも、「バンミ居た〜ね」と風太は言った。だがいまだに、また今となっては、風太本人にもバンミは何であるのか、謎は解けない。
 2008年に帰国してからの幼稚園の送り迎えは普段は母親がやっていたが、時々は私が行くこともあった。行き帰りの途中の家の庭先や、公園に咲く花の名を教えるとすぐに覚えた。
 彼は我が家に来ると真っ先に、3階の夫の書庫か私の部屋の書棚に繰り出した。本が好きな子だったから、誕生日のプレゼントはいつも本だった。12歳の誕生日に、さてどんな本を贈ろうかと思いあぐね、「今何を読んでいるの」と尋ねたら、『戦争と平和』と答えが返って、驚いたことがある。子ども向けのダイジェスト版ではなく、区の図書館のトルストイ全集の中から借りてきて読んでいると言った。本を読むのも好きだが、文字や言葉への興味や関心も強く、中学校入学のお祝いに何がほしいか尋ねると「漢和辞典が欲しい」というので、大修館書店の『大漢和辞典』をあげた。ページを繰りながら、新しい何かを発見しているようであった。
 絵を描くのも好き、それから地図を描くのも好きで、何も手本にせずに鉛筆で日本列島や世界地図の地形を、とても上手に描く。まるで地図をなぞったのではないかと思うほどに、利き手の左手を紙に滑らせて描いていく。夫の部屋の壁には、風太の描いた絵や地図が何枚か貼ってある。中の1枚は般若心経の写経で、小学3年生の時に私の「チベット部屋」にあった本を見て書き写したらしい。
 中学生の頃からは神保町の古書店巡りをしている。本が好きということでもあるが、彼の関心や興味は、江戸末期から明治、大正時代などと、少し古い時代のことにあるらしい。買ってきた古い手紙(有名人のものとかでなく、まったく市井の一市民のもの)を見せてくれながら「この頃、米騒動があったんだね」などと説明をしてくれる。時には、入手した墨書きの手紙の解読を、私は頼まれることもあった。解読できないことの方が多かったが、それでも旧字体にはいくらかは馴染んでいたから少しは役に立てたかもしれない。風太を見ていると、もしかしたら彼は、生まれてくる時代を間違えてしまったかなどと思うこともある。またこれも中学生の頃から篆刻に精を出していて、人に頼まれて篆刻印を作ったりもしているようだ。
 穏やかな性格で、時々祖父(私の夫のことですね)が、スマホの使い方がわからなくなって助けを求めると、根気よく親切に手ほどきをしてあげている。私や息子だったらイラついて声を荒らげたりするだろうが風太は、教えたことを教えた通りにやっているかどうか見守りながら、夫がつまずいたところを、また丁寧に図を書いて教えている。
 孫たちが小さかった時には息子家族と我が家で食事会をすることもあったが、末の孫が小学校高学年になった頃からは、私たち夫婦が息子の家に行っての食事会になった。そんな時に夫が「風太、何か弾いてくれよ」と言うと、少し考えてからピアノの前に座り、思いついた曲を弾き始めるのだった。それが、映画『ゴッドファーザー』のテーマ曲だったりすると、あの映画が大好きで「あれはイタリアンマフィアを描いているけれど、テーマは愛なんだよ。家族の愛を描いた映画なんだ」と言って、もう何度も繰り返し見ている夫は、グッと胸を詰まらせるのだった。
 風太が18歳で選挙権を得て初めて投票に行く時、彼は私たち夫婦と一緒に行った。投票後の感想を聞くと「ちょっとドキドキしたけれど、投票できるようになったことが嬉しかった」と言った。投票所からの帰り、彼はまっすぐ自宅へ帰らずに私たちの家に寄った。病み上がりで足元が覚束なかった夫を、案じてのことだった。2階までの階段を支えるようにして部屋に入り、テーブルでお茶を飲んで寛ぎながら、彼が言った。「じいじ、長生きしてね。僕がお酒飲めるようになったら、じいじと一緒に飲みたいから長生きしてね」
 じいじも私もその言葉に胸がいっぱいになり、「おう、あと2年だな。一緒に飲もうな」と、じいじはちょっと潤んだ声で答えた。

 風太20歳。「あと2年だな」とじいじが言った年になった。
 チベット旅行中に電話で孫の誕生を知ってからの、私が過ごしてきた20年を思う。そしてこれは、風太の生きている20年の歴史でもあると思っている。

 2003年に米英軍がイラクに侵攻し、当時の小泉政権は2004年1月にイラク・サマワに自衛隊を派遣した。私はこれに反対して、友人の横井久美子さん、神田香織さん、和田隆子さんらと「自衛隊イラク派兵反対!声をあげよう女の会(後に「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」と改名。略称:声をあげよう女の会)」を立ち上げ、3月に集会を持った。4月には高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんがイラクで拘束された。「声をあげよう女の会」で、彼ら3人はイラク市民のために活動をしているボランティアであり、またイラクで起きている事実や市民の声を日本に伝えようとするジャーナリストであることを伝えるメッセージをアルジャジーラに送り、3人の解放に尽力してほしい旨伝えた。高遠さんら3人は解放されたが、帰国後の日本で、酷いバッシングに晒された。そして非常に残念な事に、10月にはイラクで香田証生さんが殺害されてしまった。
 2007年、その前の年末に就任したばかりの安倍晋三首相が突然辞任した。この年、中越沖地震が起き、新潟県の柏崎刈羽原発でトラブル続出。
 2008年、北京オリンピック開催。世界各地で亡命チベット人や支援者が中国政府の人権弾圧に抗議の声をあげた。在日チベット人による抗議の記者会見に私も同席。しかし、長野での聖火リレーの日、長野市内は五星紅旗で埋め尽くされた。在日チベット人・支援者の抗議の声はかき消された。
 その後のチベット各地での抗議行動も、中国軍が出動して弾圧。何人もが殺され、数多のチベット人が拘束された。帰らぬまま行方のわからなくなった人たちもいる。チベット問題を知ってほしいと、友人達とニュースレター「第3の眼通信」を発行し、「チベットの歴史と文化研究会」を立ち上げ、チベットに関する講座の開催を続けていった。
 2009年、チベット北東部のアムド地方で1人の僧が焼身抗議した。以後も焼身抗議は続き、2022年3月までにその数は150名を超えている。我が身に火を放つことしか、抗議の術がなくなったチベットだ。
 2011年3月11日、東日本大震災。東京電力福島第一原子力発電所は全電源喪失し水素爆発。原子力緊急事態宣言が発令され、現在もまだ発令中だ。脱原発運動が各地で起き、集会やデモが続けられ、毎週金曜日には官邸前で脱原発集会が開かれるようになり「金官デモ」と呼ばれた。経産省前には抗議のテントが張られ、テントが撤去された現在もそこでの座り込み行動は続いている。脱原発行動には私も可能な限り参加し、翌2012年8月からは、毎月福島に通い、また福島からのゲストの声を聞くイベント「トークの会 福島の声を聞こう!」を不定期で催し、今年9月で44回を数える。
 2012年6月東電幹部らの原発事故への責任を刑事裁判で問うための告訴団が結成された。同年10月、「未亡人製造機」と揶揄されるような事故の多い輸送機オスプレイが沖縄に配備され、12月には第2次安倍政権が成立。
 2013年8月21日、リオデジャネイロ(ブラジル)・オリンピック閉幕式で安倍首相はスーパーマリオに扮して登場し、原発事故は「under control」とアピール。国際オリンピック委員会は9月8日、「2020東京オリンピック開催」を決定した。12月6日、特定秘密保護法成立。
 2014年、政府は解釈改憲で集団的自衛権行使を容認。
 2015年、安全保障関連法を怒号の中で強行採決。当時の安倍政権は次から次へと悪法を成立させた。森友問題、加計問題、日報問題など全て有耶無耶にしていることに対し、国会の外では連日多くの市民が抗議の声をあげていたが、声はかき消された。安保法制は憲法違反だとして、「安保法制違憲訴訟の会」が立ち上げられ、各地で国家賠償請求訴訟・差止請求訴訟が提訴された。私も東京での国賠訴訟の原告となり、東京地裁で、また控訴審では東京高裁で、意見陳述をした。しかし各地方裁判所はことごとく憲法判断を避けて政権に忖度した判断を下した。
 2015年6月に開催した「声をあげよう女の会」集会で、澤地久枝さんから「アベ政治を許さない!」プラカードを掲げる抗議行動が提起された。そして7月18日に国会前で集会を持ち、日本全国、世界各地で呼応しての行動が起きた。これは今も毎月3日に国会前で続けられている。7月31日、不起訴とされていた福島原発刑事裁判の強制起訴決定。
 2016年2月、福島原発刑事裁判検察官役の指定弁護士が、東電元幹部3名を起訴。4月、熊本県・大分県で相次いで地震発生。
 2017年6月15日、共謀罪法(テロ等準備罪法)が成立。6月30日、福島原発刑事裁判の第1回公判。
 2019年9月19日、福島原発刑事裁判、不当判決で敗訴。10月1日、消費税10%に。
 2020年、新型コロナウイルス感染拡大で緊急事態宣言発令。新型コロナの流行で派遣業従事者など雇い止めされた人も多出し、飲食店など休業あるいは廃業を余儀なくされた店も多い。7月に予定されていた東京五輪は、こんな時期に開幕できるはずもなく延期された。9月16日安倍総理退任、菅政権となる。
 2021年7月23日〜8月8日、東京五輪開催。10月4日菅総理退任、岸田政権誕生。
 2022年2月24日、ロシア軍ウクライナへ侵攻。2月27日、急遽呼び掛けられた渋谷ハチ公前での「ロシア軍ウクライナ侵攻反対」集会に、私は風太と二人で参加。風太はロシア語で手書きした「戦争反対、平和」のプラカードを掲げた。
 2022年7月8日、元首相・安倍晋三氏狙撃され死亡。11月21日、福島原発刑事裁判検察役弁護士が東京高裁に「一審判決を破棄し、自判又は差戻を求める」上申書提出。
 2023年1月18日、福島原発刑事裁判控訴審判決、敗訴。1月24日、最高裁に上告。広島で5月19日〜21日の3日間で開催された「G7広島サミット」では「核軍縮に関する広島ビジョン」が発表されたが、核不拡散条約の堅持を確認するばかりで核兵器廃絶には踏み込まなかった。

 この20年の日本と世界の動きを見てくると、なんだか不穏な方向へ動いているように思えてならない。この不安な時代を称して、タモリさんが「新しい戦前」と言ったけれど、その言葉に共感を覚えながら、けれど決して戦争への道を歩んではならないと強く思う。
 この国の呼称は幕藩体制が崩れた幕末の頃の外交文書に「Empire of Japan」が使われ始めて「大日本帝国」と称するようになったが、それ以前は「大」も「帝国」もつかない「日本」とか「日ノ本」と称していたという。
 1873(明治6)年、陸軍省は徴兵令を発令。17歳〜40歳までの男性臣民が対象となった。
 1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布され、第20条により兵役義務が憲法化された。
 1927(昭和2)年、兵役法が制定・施行され、20歳以上の男子は兵役の義務が課せられる。

 私の父・良一は、朝鮮の新津で1914(大正3)年5月7日に生まれた。良一の父親、つまり私の祖父・藤平は、その地で税関吏をしていた。父の誕生より4年前の1910(明治43)年、「大日本帝国」は「大韓帝国」を併合し韓国の国号を「朝鮮」として朝鮮総督府を設置した。どんな事情で祖父が朝鮮総督府の役人をしていたのか尋ねる人もなく、私にはわからない。
 1919(大正8)年1月、両親の藤平・静江をスペイン風邪で亡くした父は、祖父三平(藤平の父)に引き取られた。東海道の宿場町・原(静岡県)の脇本陣だった家で、良一は後見人三平の庇護のもとで成長するが、12歳の時に三平が亡くなり、家督を継いだ。そして叔父の房吉が、父の後見人となった。
 旧制沼津中学に通ったが、帝国主義そのものの教師の言動に反発して、自ら退学したという。その時代の父の同級生だった人たちから「いつも本を読んでいた」「将棋も強かったが囲碁が強くて、仲間で敵う者はいなかった。渡辺くんは『小さい時からじいちゃんに鍛えられたからだ』と笑っていた」「家に帰っても寂しかったのかな。僕らは兄弟がいたり親父やお袋がいたから早く帰りたかったけど、学校の帰りに一緒に蕎麦を食って帰ろうと、よく誘われた」「渡辺くんは屋根の上から、いつも威張り腐っていた先生の出勤時に尿を浴びせた。退学処分を受ける前に、自分から学校を辞めてしまった」と私が聞いたのは、ずっと後のことだ。
 幼い頃からの境遇のせいからか、物思うことも多い早熟な少年だったのかもしれない。
 退学した父は叔父夫婦に家督を譲ると言い置いて家を出、横浜のセメント屋の住み込み店員となった。
 1931(昭和6)年、柳条湖で満鉄爆破事件(満州事変)が起こる。
 1932(昭和7)年、満州国建国宣言。
 1934(昭和9)年、20歳になった父は徴兵検査で甲種合格し、同年12月1日、歩兵第34連隊留守隊に陸軍二等兵として入営した。同月14日に宇品港を出港、16日に釜山上陸。朝鮮国境を通過した。ずっと後に私が取り寄せた父の軍歴調査結果には「朝鮮国境通過」としか記載されていなかったが、国境を通過後「満州国」入国だったのだろう。入営半年後に任陸軍一等兵に、その半年後に任陸軍上等兵となっている。そして2年後の1936(昭和11)年6月に連隊は静岡へ戻り、11月30日に現役満期除隊となった。満期除隊の翌日、12月1日に予備役編入となり、1940(昭和15)年9月15日には、任陸軍兵長となっている。兵士の階級は学歴などに拠っていたらしい。
 1936年に満期除隊となった後で、時を経ずに父は再び満州へ渡り、哈爾濱の濱江省長官房財務課に職を得た。独学で学んでいた中国語が役に立ったが、さらにしっかり学びたくて中国語の講座を探し、週に3回夜間に講座が開かれていることを知って通った。先生は東京外国語学校(現東京外国語大)を出た人だった。そのころ、職場の上司の口利きで父と母は見合いし意気投合して、二人は1941(昭和16)年に結婚した。
 そして、1945(昭和20)年1月、私が生まれた。
 同年6月23日、義勇兵役が法制定され、15歳から60歳までの男性、17歳から40歳の女性に国民義勇戦闘隊召集を実施。
 私が生後6ヶ月の7月20日、父は臨時召集を受け、独立歩兵第801大隊に応召する。
 同年8月9日、ソ連軍侵攻。8月15日、日本の敗戦で戦争終結。父は、それきり帰らなかった。臨時召集を受けた時に父は母に、「この戦争は、もうじき終わる。日本が負けて終わる。その時には、僕たちの時代が来る。新しい時代が来る。必ず帰るから、一枝を頼む」と言い残したという。

 帰らなかった夫を待った母が1986年に没した後、私は父の足跡が辿りたくて原の父の実家を訪ねた。後見人だった房吉さんの長男の、清さんが迎えてくれた。清さんは「一枝ちゃんが来たら返そうと思っていたものがある」と言って、私の前に小さな茶箱ほどの木箱を置いた。
 「良一さんが兵隊に行く時に『絶対に開けるな』と言って、お袋に預けていったです。開けるなと言われたけんど、あの時代のことだったもんで、お袋はそうっと開けてみました。新聞『赤旗』なんかが入っていたからお袋は驚いて、子どもだった私らにも絶対に口外しないように言って、焼いちまいました。他にも焼いたものがちっとはあったかも知らんけど、大概みんなそのままに残して、お袋はまたしっかり封をして、今日までずっと天袋に隠してきました」
 しっかりと紙で封印されていた木箱の蓋を開けると、湿って古びた紙の匂いがした。手紙や雑誌、ノート、紙魚喰いの跡のある『十八史略』などが入っていた。ノートの多くはエスペラント語の学習帳で、私には読み取れなかったが、日本語で書かれたノートを開くと、ゴーリキーの『検察官』の書き写しがあった。また「『社会思想批判より』抜粋」として書き取ったものや、『社会学入門』など左翼思想関係の本の書名が書き連ねてあった。それらノートの表紙には端正な文字で「渡邊良一」とペン書きしてあったが、手紙の宛名はどれも、単なる間違いなのか本名を隠しての事なのかはわからないが、「渡邊一様」となっていた。
 思いがけずに清さんから差し出された木箱には、20歳の父が詰まっていた。横浜のセメント屋で働いていた父が、どのような経過から当時は非合法の発行で地下新聞だった「赤旗(せっき)」を手にしていたのか、エスペラント語を学ぶきっかけはなんだったのか、知る術はなかった。ただ私が想像するには、横浜に行ってからそのような思想に目覚めていったのではなく、旧制中学時代から、強く関心を持っていたのではないだろうかと思う。関心があっても周囲に迷惑をかけることを案じもして、自ら旧制中学を退学し係累を断つような言葉を残して家を出たのではないだろうか。旧制中学時代の同級生だった人たちから、学生時代の父のことを聞かせてもらったのも、この時のことだ。
 20歳の父を想う。戦争がなければ、どんな人生を歩んだかと思う。

 風太は、どんな人生を送るのだろう。学びたい先生がいるからと選んだ大学の法学部にいて20歳を迎える彼を見ながら、父の時代を決して繰り返してはならないと、私は強く心に刻む。人の一生には、その時代の政治が大きく絡む。政治と関わりのない暮らしなどはあり得ない。だが、風太には時の流れに流されずに生きていって欲しい。歩みたい道をまっすぐに歩んでいって欲しいと願う。
 日本にも世界にも不穏な空気が漂っている今、私はなお一層強く願う。そして、その願いを、私は自身の日々の行動でも示すことを誓う。
 戦争への道は、歩かない! 戦争への道を、歩かせない!

2023年8月15日  渡辺一枝

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。