鶴田敦子さんに聞いた(その1):道徳の「教科化」が意味するもの

2006年、第一次安倍政権下で行われた教育基本法の改訂。その内容は、教育への国家の介入の歯止めをなくし、「教育の目標」に道徳心や愛国心の養成を掲げるなど、日本の戦後教育そのものを否定するといってもよいものでした。そして2015年には、これまで教科外の「道徳の時間」として行われてきた道徳教育の「教科化」が決定。「いじめの防止」などがその理由として挙げられましたが、「愛国心」などを説いた戦前の「修身」教育の復活につながるのでは、との批判も多くあります。
その「道徳の教科化」が来春、全国の小学校でついに正式スタートします(中学校でも2019年度から開始)。教科化によって何が変わるのか、そこではどんな内容が教えられることになるのか、その問題点は──。教科書問題や国家の教育介入に警鐘を鳴らし続けてきた「子どもと教科書全国ネット」代表委員で、自身も長く家庭科教師として教壇に立った経験をもつ鶴田敦子さんにお聞きしました。

「教科化」で何が変わるのか

──まもなくスタートする「道徳の教科化」。これまで「教科外活動」の位置づけで行われてきた道徳の時間を、「特別の教科」として正式教科の一つに「格上げ」するものですが、これによって何が変わるのでしょうか。

鶴田 まず大きいのは、「教科書を使って授業が行われるようになる」ことです。今までの道徳の時間も、学習指導要領である程度の教えるべき内容が定められてはいましたが、教科書はなく、通知表での評価もなかった。子どもたちと教師が、自由なテーマで話し合ったりすることができたわけです。
 それが「教科」となると、学校教育法の定めによって必ず教科書を使用しなくてはならなくなります。

──今年の春には、初めての小学校道徳教科書検定が行われ、ある出版社が〈学習指導要領にある「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という観点が足りない〉という検定意見を受けて、散歩の途中で子どもが魅力を感じた「パン屋」を「和菓子屋」に書き換えた、というニュースが話題になりましたね。

鶴田 あの話は大きく取り上げられましたが、問題は検定意見のおかしさだけではありません。私は各社の教科書を読み比べてみましたが、そこには検定意見以前の、さまざまな問題があると考えています。

──たとえば、どういうことでしょうか。

鶴田 まず問題だと思うのは、「正式な教科」といいながら、内容がまったく学問的・理論的でなく、正確ではないということです。たとえば「権利と義務」を取り上げた項目では、天秤の写真や、子どもが両手に「権利」と「義務」を持っているイラストが添えられていて、まるで権利と義務の二つが「セット」であるかのように書かれています。
 たしかに、日常では「権利ばかり主張していないで義務も果たせ」なんて言われ方をすることはあるけれど、本来、権利と義務とはまったく別々の存在。個人の権利は、その人が何かの義務を果たしているかどうかは関係なく存在するものです。
 それなのに、権利と義務を「セット」として考えると、自分の権利を外に向かって主張することはなかなかできなくなってしまいます。「あなたは権利ばっかり主張して、義務をちゃんと果たしているの」と言われてしまうかもしれないから。日本国憲法でも、権利と義務はセットとして書かれていたりはしないですよね。憲法に依拠していないという意味でもおかしいと思います。

──むしろ、その二つをセットとして扱っているのは自民党の憲法改正草案ですね。国民の責務を定めた12条の改正案に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」との一文があります。

鶴田 学問的でないと感じる箇所は、他にもたくさんあります。たとえば「大切な国旗と国歌」という項目で、「オリンピックの表彰式でも、国旗がかかげられ、国歌がえんそうされます」と書いてある教科書もありました。でも、オリンピック憲章にもあるとおり(※)、オリンピックは国家間の競争ではありません。あそこで掲げられる旗も国旗ではなくあくまで選手団の「団旗」です。

※オリンピック憲章第1章6に「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない」とある。

──昨年のリオオリンピックでは、難民となった人々が選手団を組んで、「団旗」を掲げて参加していましたね。

鶴田 そうです。「国旗や国歌を尊重する」場面として挙げるには、あまりにも不適当です。
 そうした、学問的に正しくない、客観的な事実を踏まえていないと思われるような記述が、どの社の教科書にも散見されます。やはり、道徳教育の背景になっているのが儒教などをもとにつくられた戦前の「修身」の考え方であって、学問ではないということだと思います。

すべてが「心の問題」に矮小化されている

鶴田 一方、人権や平等、平和といった民主的な価値についての記述が非常に少ないことも気になります。たとえば「生きる権利」「生命の大切さ」といったことは、ほとんど教えられていない。「人を殺してはいけない」という話は出てきても、それは「そういう決まりだから」という描かれ方で、本質を欠いています。
 「平和」についても、ほとんど出てきません。

──そうなんですか? なんだか意外な気がします。

鶴田 正確にいうと、「戦争の話」はいくつも出てくるけれど、「平和」を教えるものではないんです。
 たとえば、いくつもの社の教科書に取り上げられている題材に、杉原千畝のエピソードがあります。第二次世界大戦時、リトアニア領事だった杉原千畝は、ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちのため、外務省の命令に背いてビザを発給し、結果的に6000人もの命を救った──という話ですが、扱い方があくまで「個人の人徳」の話なんですね。なぜ杉原さんがそんなことをしなくてはならなかったのか、その背景についてはほとんど触れられていなくて、「杉原さんはえらい、立派な人だ」で終わってしまっているんです。
 でも、人間というのは、どんな立派な人でも置かれている環境によって道徳心をなくすこともあります。「心の問題」だけに矮小化してしまうのではなくて、その人が置かれていた時代や社会状況もあわせて客観的に考えるのでなければ、まったく意味がないと思うのです。

──ただ「こういう素晴らしい人がいた」という話をするだけで、その背景にある「戦争」の愚かしさについて学ぶ内容にはなっていない、ということですね。

鶴田 そうです。そして、そんなふうにすべてを個人の「心の問題」にしてしまうと、そこからは世の中を変えていく力が生まれてこなくなります。何か問題があっても、それはその人の「心の問題」であって、世の中に問題があるわけではない。うまくいかないのはその人の努力が足りないんだ、世の中ではなく個人の責任なんだ、といって他者を攻撃する、そういう構造を生み出していくことにつながると思います。

──昨今の、生活保護受給者や、奨学金返済に苦しんでいる大学生などへのバッシングが思い浮かびます。

鶴田 著名人の取り上げ方にも、それと共通する考え方を感じました。今回の道徳教科書には、浅田真央さんとか内村航平さんとか、スポーツ選手がすごくたくさん登場していて。それ自体は別にいいのですが、すべてが「頑張ればうまくいく」という取り上げ方なんですよね。
 でも、実際には頑張った人がみんな浅田真央さんになれるかといえば、そんなことはありませんよね。彼ら、彼女らが成功したのはもちろん努力のおかげもあるけれど、周囲の環境とか、小さいころに資質を見出してくれた人との出会いとか、そういう要素も当然あるわけでしょう。小学校の低学年ならともかく、高学年や中学生にもなれば、そうした面も含めて総合的に見る目を育てたほうがいいと思うのですが、そういう視点はほとんどなくて、とにかく「努力が素晴らしい」。努力を否定するわけじゃないけれど、それだけを強調するのはどうなんだろう、と思います。

──裏返せば、成功できないのは努力が足りないから、ということにもなってしまいますね。

鶴田 そもそも、各教科書のもくじを見ていくと、取り上げられているのはほとんどすべて「プラスの感情」なんですね。「あかるいあいさつ」「きそくただしいせいかつ」「ありがとうをとどけよう」…。
 でも、実際には人間はいつも前向きでいられるわけじゃないし、子どもだっていじけたり後ろ向きになったりすることはあります。そういう面を無視して、常に「いい子でいましょう」「人に優しくしましょう」とばかり言われるのでは、子どもたちもつらいのではないでしょうか。

(構成/仲藤里美・写真/マガジン9編集部)

つるた・あつこ
20年にわたって中学校・高等学校の家庭科教員を務めた後、山形大学・群馬大学・聖心女子大学で勤務。元日本家庭科教育学会会長(2007年度〜2010年度)、現在、子どもと教科書全国ネット代表委員。近著に『徹底批判!!「私たちの道徳」でゆがめられる子どもたち』(2014年)、『大問題!子ども不在の新学習指導要領 学校が人間を育てる場でなくなる?!』(2016年)、『原発・放射線をとことん考える!いのちとくらしを守る15の授業レシピ』(2016年)などがある(いずれも共著・合同出版)。