第20回:ふくしまからの日記──浪江町・飯舘村「一枝さん、ダメダァ。オレ入院。ごめん、今日は会えない」(渡辺一枝)

 10月21日、浪江町の津島から、飯舘村へ行きました。飯舘村の長谷川健一さんにお会いする予定でした。けれども、叶わぬこととなってしまいました。悲しいご報告ですが、お読みいただけたら幸いです。

浪江町津島区へ

 今回の福島行は、10月22日に仙台高裁で「子ども脱被ばく裁判(福島県内の小中学生とその保護者が、安全な環境で教育を受ける権利や、初期被ばくに対する損害賠償などを求め、国や福島県などを訴えている裁判)」控訴審の第1回口頭弁論があるのでそれに合わせて、前日に福島入りの日程を組んだ。両日とも南相馬市在住で、「語り部」の活動を続けている高村美春さんと同行する。
 美春さんは、双葉町や大熊町の帰還困難区域には何度か入っているが、浪江町津島地区には入ったことがないと言い、21日は今野寿美雄さんに津島の実家に連れて行って頂くことにした。午前中に津島に行き、私は飯舘村の長谷川健一さんを訪ねたかったので津島に行った後で飯舘村に行く予定にした。そしてその晩は美春さんの家に泊めてもらい、翌日は一緒に仙台高裁へ裁判傍聴に行くことにした。

道路工事

 私はいつものように福島駅で今野さんにピックアップしてもらい、津島のスクリーニング場へ向かった。美春さんとはスクリーニング場で待ち合わせだ。
 福島駅から国道114号(通称:福浪)線で津島に向かう。今野さんに同行をお願いするようになったのは2017年からだったと思うが、その時から何度も通った道だ。川俣町の山間部に入ると高根川に沿って曲がりくねった細い道になり、運転はさぞ疲れるだろうなと思った。今野さんにそう言うと、逆に高速道路のようにあまりハンドルを動かさずに済む道の方が肩が凝るという返事だった。
 何度も通ううちに道路拡幅や、湾曲が大きな箇所はまっすぐになるように新たに道を造ったりで、いつでもどこかで工事が進められているようになった。今回は小綱木でトンネル工事が始まっていた。他にも何ヵ所も工事中の場所があり、道路工事用の信号機が設置されている。道路工事が始まった初期の頃は作業員が手旗で合図をしていたのだが、工事箇所が増えて、今はどこもが信号機になった。
 原発事故が起き、除染廃棄物や除染土を運ぶために、道路の新設や改修が県内各地で急ピッチで進められてきた。この114号線の道路改修は、東日本大震災よりもっと以前から計画されていたことだという。周辺住民たちは、災害時にはここが避難路になるのだから早く直せと訴えていたそうだが、なかなか工事着手はされずに過ぎていたそうだ。ずっと以前から計画には上がっていたにもかかわらず、ここにきて俄に慌ただしく工事が進められているのを見れば、避難路というよりも除染土運搬路としての必要性から着手したと思えてならない。

共同墓地へ

 待ち合わせ場所のスクリーニング場に着くと、美春さんはもうそこで待っていてくれた。事故前は津島保育園だった所にプレハブの建物を建ててスクリーニング場にしているが、以前はすぐ近くのつしま活性化センターがスクリーニング場になっていた。保育園の方に移したのは、活性化センターの場所に役場を作るからだそうだ。活性化センターの建物は解体するのか、あるいは除染するためなのか、建物の周囲に足場が組まれシートで覆われていた。役場をここに持ってくるというが、戻る住民はいるのだろうか? 戻りたい人はいるかもしれないが、日々の生活に必要な商店や医療や介護の施設がなければ、役場だけここに持ってきてもここで暮らしてはいけない。
 美春さんの車はそこに置いて、ここからは今野さんの車で一緒に行く。職員から不織布の上下服、マスクや手袋、靴カバー、キャップなどが入ったビニール袋を受け取って更衣室でそれらを身につけて車に乗り込む。
 途中通りがかった浪江津島高校にはモニタリングポストが設置されていて、0.579μSv/hの数値を示していた。今野さんの実家がある赤宇木へのゲートで、今野さんは待機していた職員に申請者名簿と運転免許証を見せ「1時間ぐらいで戻ります」と言い、鍵を開けて貰って車を中へ進めていった。「ここ、リンゴ園だった所」と今野さんの指す方を見ると、草茫々の荒れた中に、同じ程度の樹高の木が同程度に間隔を空けて枝を伸ばしていた。元はゴルフ場を建設する予定だったのが頓挫して、それでリンゴ園にしたのだったという。そのとき、リンゴ栽培の指導に来た人が、後に今野さんの弟の妻になる人の父親だったそうだ。そこがリンゴ園になったのは今野さんが子どもだった頃のことで、遊びに行っては栽培指導の様子も見ていた。ずっと後に弟の結婚式で新婦の父親を見た時に互いに「あの時の」と驚いたのだと、今野さんはその日の様子をまるで昨日のことのように話した。
 そのあたりに車が1台止まっていて、数人の作業員が近くに立っていた。「何の作業をする人たちだろう」と私が言うと、美春さんが「草刈りだと思いますよ」と答えた。ああ、きっとそうだろう。あたりには解体するべき建物はないし、ここは除染対象にはなっていない。今野さんの「マスクしてない奴も一人いるなぁ」と案じる声には、業者の危機管理教育の不徹底への憤りが滲んでいた。
 前方からウリ坊が走り去って行った。ウリ坊は捕獲用の箱罠から出てきたのだった。箱の扉は閉まらず、罠には掛からずに出てきたのだ。どうやら仕掛けておいた餌も無くなっていたらしい。そこにいけば餌があることを、ウリ坊はもう学習していたのだろう。
 今野さんの実家は浪江町津島地区赤宇木の小阿久登だが、集落の家々は1軒だけが三瓶姓で、他はみんな今野姓だという。それぞれ屋号の「西」「西脇」「東」「下(しも)」などと呼び分けていたそうだ。三瓶さんの屋号は「平場(ひらば)」だというから、地形や方位が屋号になっていたようだ。7月の「被災地ツアー」で来た時には共同墓地を車から見て過ぎただけだったが、この日は降りて墓前で手を合わせた。中央の高い位置が本家のお墓で、分家のお墓は屋号に合わせて方位通りに建立されていた。今野家の祖先がこの地に根を下ろして1000年以上、本家・分家のいずれの墓石も大きく立派な黒御影石だった。本家の墓碑に刻まれた文字の中には、記されてから年月を経て、もう読み取れない部分もあった。
 「兄貴が彼岸に来て草刈りしたって言ってたけど、もうまた生えちゃってる。草刈りだって、被ばくするんだよ」。今野さんが言った。帰還困難区域は、お墓参りも立ち入り申請をして許可を得なければ、入ることができない。ここで暮らしていた人たちを、根付いた地から力任せに引っこ抜いてしまったのが原発事故だ。今野さんの息子の颯人くんは、被災後ここに来たことはなく、避難先の地で過ごした月日の方がもう長い。原発事故は故郷の過去を奪い、繋がる筈だった未来の時間も奪ってしまった。この墓地は、守る人がいなくなったらどうなるのだろう。
 野にはリンドウやアザミが咲いていた。

今野さんの実家

 「わぁ、立派!」。神棚の部屋に、美春さんが感嘆の声を上げた。前に訪問した時に今野さんから「部屋自体が神棚なんですよ」と聞いていた。その神様のおわす部屋も野生動物に荒らされていた。高い天井の下は、部屋幅いっぱいに棚がしつらえられている。「みずえさんちは、もっと立派だよ」と今野さんは、近所にある菅野みずえさんの家の神棚の部屋のことを言う。
 以前に一度、私も今野さんの案内でみずえさんの家に行ったことがあった。板敷きの部屋の天井下の大きな棚を見ても、私はまさかそれが神棚だとはその時には思えずにいた。その後、被災地ツアーで初めて今野さんの家を訪ねたときに「部屋自体が神棚」と聞いて、それまで私が持っていた神棚に対する貧弱なイメージが書き換えられた。そして、その時にみずえさんの家のあの部屋は、神棚の部屋だったのだと思い起こしたのだった。
 今野さんはみずえさんの家の神棚の部屋のことを言った後で、「昔の家は、神に頼るしかなかったからだろうね」と言った。たびたび冷害に見舞われた昔の暮らしは、確かに神頼みだったかもしれない。けれどもその中でも、冷害の影響を受けにくい酪農に切り替えたり、寒冷地に適した作物や品種を育てるなど工夫を重ねてこの地での暮らしを築き上げてきたのが、津島の人たちだった。
 隣の部屋の長押に飾られた先祖の遺影の説明を今野さんから聞いた後で、美春さんは、「中古住宅が売りに出される時は、こうした写真を残したままであることが少なくない」と言った。被災地ツアーの時に今野さんからは、ご先祖さまが我が家を守っていてくれる、どうぞ守ってくださいという思いで写真を残していると聞いたが、美春さんの言葉も今野さんの言葉も、通底する思いがあるように感じられて胸が痛い。
 遺影の下の床の間の隣には大きな仏壇があり、私が「ご位牌は避難先に移されたの?」と聞くと「兄貴が自分のところに持って行きました」と答えが返った。美春さんが仏壇の前の机の下にある紙を見て「あれ、お行列帳がある!」と言った。今野さんも「あ、ほんとだ」と言ってそれを取り上げた。何枚かの紙が閉じられた2冊の帳面の片方の表紙には今野さんのお父さんの俗名と享年、亡くなった日時が、もう片方にはお母さんのそれが書かれていた。それぞれの葬儀の時に使われたものだった。紙を捲ると、司会や松明など葬儀の時に誰がどんな役目をするかが記され、次のページにはだれからどんな供物があったか、導師の名前や導師案内役の名前、写真係の名などが記されていた。
 この集落ではずっと土葬の習慣があり、今野さんのお父さんが初めての火葬だったというが、「お行列帳」は、集落の人たちの結いによって葬儀が営まれていたことを示していた。貴重な資料だと思う。ここで暮らしていた日々のコミュニティの有り様が、まざまざとうかがえる。
 今野さんの実家を出て、車を駐めてある道まで戻った。道の向こうに広がる荒地は、牧草地だったという。色鮮やかにセイタカアワダチソウが咲き、トンボが飛んでいた。道のすぐ下の池には鯉がいたというから、きっと今ではその鯉は池の主になっているかもしれない。
 靴カバーを外して不織布の上下を脱ぎ、キャップも脱いで手袋を外しマスクも取って、それら全てをビニール袋に収めて車に乗った。
 赤宇木のゲートまで戻ると、そこで待機していた職員に今野さんは礼を言いながら今一度申請書を見せ、ゲートを開けてもらってスクリーニング場への道を戻った。スクリーニング場で汚染物の入ったビニール袋を職員に渡し、靴底の線量を測ってもらい、首にかけた線量計の数値を確認して職員に戻した。ほぼ1時間の滞在で、私の線量計は0.7μSv、美春さんのは0.8μSv、今野さんのは0.9μSvを示していた。一緒に行動していて同じ場所に同じ時間いたのに、ちょっとした行動や場所移動などの違いで、こうした差が出るのだろうか。
 スクリーニング場の職員に今野さんは「昼飯食うところがないから大変だね。弁当持ってきてるの」と声をかけ、途中のコンビニでおにぎりを買って持ってきていると答えを聞いて「そうか。風邪ひかないようにね。ご苦労さん、ありがとう」と声をかけて発車した。ゲートにいた職員も、スクリーニング場の職員も、東電の社員だそうだ。「みんな一生懸命やっているよ。働いている職員に罪はないんだ。経営者が悪い、それと国」。そう言う今野さんだった。
 国道に面している石井ひろみさんの家と隣の菅野みずえさんの家の前には、この間までは無かった柵が設けられていた。いよいよ解体されるらしい。
 幹線道路から見える家々は力ずくで薙ぎ倒され、人目につきにくい奥まった地の家々は周囲の草木に呑み込まれ、野獣が出入りして朽ちていくばかりだ。

飯舘村、長谷川健一さん

 飯舘村のえびすやで昼食のうどんを食べ、長谷川さんの家に向かった。今回は前もって訪問を伝えていないが、蕎麦の収穫も終わっているので家にいるだろうと思っていた。道の途中で長谷川さんに電話をしたら留守電になっていたので切って、次に妻の花子さんにかけてみた。花子さんの携帯も、やはり留守電だった。少し経ってからまたかけ直そうと思いスマホを閉じたが、その直後に着信音が鳴った。電話に出ると長谷川さんからだった。
 受話器を通して聞こえてきたのは、振り絞ってやっと出しているような声で「一枝さん、ダメダァ。オレ入院。ごめん、今日は会えない」と、ようやく聞き取れた長谷川さんの声だった。その声でその言葉を聞いた途端、私は頭が真っ白になってしまったようで、多分私からも何か言ったはずだが、どう答えたのか何も覚えていない。
 8月に訪問した時はコーヒーを飲むのにもだいぶ辛そうだったが、蕎麦の収穫を終えたと聞いていたので、小康状態を保っているかと思っていた。だから訪ねたいと思ってきたのだった。

 その前、3月27日に訪問した時にはジャーナリストの豊田直巳さんも一緒だった。その時に長谷川さんは「物を飲み込むのが辛くて、ビールをグビッと飲めなくなった」と言っていた。豊田さんはそれを聞いて、「日本酒ならチビリチビリだから大丈夫でしょう」と、冗談のように交わしていた。だが、そう言いながらも豊田さんは、検査を受けたかと案じて聞いた。長谷川さんは、明日県立医大で検査の予定だと答えた。
 長谷川さんは万全ではない体調のせいか、弱気になっているように感じられた。それでも豊田さんや今野さんと冗談を交わし、豊田さんにはフェイスブックのプロフィール写真を替えたいので、何か良い写真を探してくれるよう頼んでいた。その時の、長谷川さん、豊田さん、今野さんの会話には「遺影」という言葉も冗談混じりに出ていた。体調の悪さは深刻な状況だと私には思われたが、それは長谷川さん本人はもとより、豊田さん、今野さんも同じく思っていただろう。そんな状況下でもこんなふうに冗談を交わし合える豊田さん、今野さんと長谷川さんの関係を、眩しくも思っていた。
 その日、今年も蕎麦を撒いて育てるという長谷川さんに、私はチベットの蕎麦畑のことを話した。 チベットの蕎麦の花はピンクで、花の季節には菜の花の黄、裸麦の穂の緑で、大地が花の絨毯のように綺麗なのだと話した。長谷川さんは元気のない声で、「蕎麦の種類が違うんだな」と言った。
 嚥下に苦労するという長谷川さんだから、花子さんは食事の支度に苦心されているのではないかと思い聞いてみた。せっかく作っても食べられなかったりすることが多くなったので、買い物には一緒に行くようにして長谷川さんが食べたい食材を買って食べられるように調理しているということだった。
 5月になって豊田さんから、長谷川さんが甲状腺がんの手術を受け、それはうまくいったと聞いていた。6月にも長谷川さんの家を訪ねたのだが、長谷川さんは用事で出かけていて留守で、花子さんは畑の草刈りに出ていて会えなかった。
 8月24日に今野さんと一緒に訪ねた時には、長谷川さんは抗がん剤治療を受けることを話してくれた。するとしばらくは入院生活になるのだろうと、私は思った。
 花子さんが白磁に花柄のマグカップに淹れてくれたコーヒーを、私は美味しくいただいた。コーヒーのマグカップは花子さんが絵付けしたものだという。長谷川さんは口に含んだコーヒーを、首を傾げながら少しずつ喉に流し込むようにして飲んでいた。前回の訪問時よりも、なお辛そうだった。花子さんは「一枝さん、このカップ要らない? 気に入ったのがあったらあげるから選んで。今野さんも好きなの選んで」と言って、マグカップの他にティーカップとソーサーのセットや、小皿などをいくつかテーブルに広げた。どれもが綺麗な花の絵で、それが白磁によく映えていた。忙しい日々の中でこれらを作っている花子さんに感心して誉めると、長谷川さんは温かに笑いながら「こいつは好きなことやってるよ」と言った。私には、それは労いの言葉に思えた。
 9月になって、豊田直巳さんのフェイスブックには、大型のトラクターを運転して蕎麦の刈り入れをしている長谷川さんの写真が載っていた。長谷川さんは抗がん剤治療で入院していたのだが、蕎麦の収穫が気掛かりで「治療には通うから」と医者を説得して、強引に退院してのことだったらしい。豊田さんは原発事故後に起きたことを記録に残そうと足繁く飯舘村に通い、容態の案じられる長谷川さんその人のことをも、しっかりと撮り続けていた。長谷川さん自身もまた、村の記録を映像として残すべくドローンも使ってビデオを撮っていたから、豊田さんの取材が励みになっていただろう。そしてまた心置きなく話ができる豊田さんの訪問に慰められてもいただろう。

 そして今回、移動中の車の中で長谷川さんからの電話を受けた私は、今野さんに電話の内容を伝えながら、「悔しいね、悔しいね」と、それしか繰り返せなかった。堪えても涙が溢れてならなかった。
 長谷川さんの電話を受けた後で花子さんに電話をすると、長谷川さんは原町の南相馬市立病院に入院したという。花子さんは病院へ洗濯物を届けに行っていて、4時半頃家に戻るということだった。それで花子さんの帰りを待ってお宅を訪ねた。
 県立医大の主治医の先生が原町の市立病院に赴任したので、このところ痛みが酷くなっていた長谷川さんは、痛みを緩和する点滴を受けるのに市立病院に入院したということだった。だがコロナ下での入院なので、花子さんも長谷川さんに会うことはできず、洗濯物の受け渡しは職員を介してのことだと言った。長谷川さんの病状をお聞きすると、食物の経口摂取は難しいので胃瘻の手術を受けることにしたという。
 蕎麦の脱穀・製粉の状況などをお聞きすると、長谷川さんが蒔いた前田地区の畑の蕎麦は、乾燥も脱穀・製粉も済んだという。でも、他からも脱穀・製粉加工を頼まれていて、それらは花子さんの仕事になっていた。花子さん自身も、相当疲れているようだった。この日も片眼を腫らしていたので、どうしたのと尋ねると帯状疱疹で頭から腫れてしまったのだが、頭の腫れはひいたと答えが返った。そう言いながら花子さんは工場の機械を動かして、頼まれた製粉をこなしているのだった。製粉が終わって機械が止まると、大型のトラクターを運転して車庫に戻していく花子さんだった。
 花子さんが倒れてしまってはいけないから、体に気をつけてと言い、長谷川さんをお大事にと言って、お暇したのだった。その晩は、美春さんの家に泊めていただいた。

 翌22日は「子ども脱被ばく裁判」の控訴審で仙台高裁に行き、裁判傍聴と報告会終了後に帰宅した。
 23日朝、スマホの着信音が鳴って、画面に出た「今野寿美雄」という発信者名を見た時、長谷川さんが亡くなったのだ、と思った。受話器の向こうから「22日夜、長谷川さんが亡くなりました」と今野さんの声が聞こえた。2日前に長谷川さんから電話を受けた時の「ダメダァ」の声が、ずっと耳朶に残っていた。何を「ダメダァ」と言ったのだろう。考えても詮ないことを、あの日から今も思い巡らせている。
 長谷川さんは、まだまだ生きていて欲しかった。大切な人だった。大切な人の大事な命が奪われてしまった。悔しい。悔しくてならない。長谷川さんは、なおなお、無念だったことだろう。その無念を晴らすため、国・東電の責任を問い続け、全ての原発を廃炉にせよと、私はこれからも声を上げ続けることを自分自身に誓っている。

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。