第10回:ホロコーストをめぐって 2(芳地隆之)

絶滅戦争

 『ヨーロッパ ヨーロッパ~僕を愛したふたつの国~』(1990年、独仏合作。アグニェシュカ・ホランド監督)という映画がある。実在したユダヤ人男性、ソロモン・ペレルを主人公にした物語だ。
 ペレル一家はドイツでヒトラーが政権を獲得後、ナチスの迫害を逃れて、ポーランドに移住していた。ところが、1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへの侵攻を開始。半月後には東部からソ連軍が侵攻し、首都ワルシャワは4週間足らずで陥落する。ソロモンは戦火のなか、両親や兄と離れ離れになり、ソ連の施設に身を寄せることになった。
 やがて独ソ関係も不穏になっていく。
 ナチス・ドイツは東欧からモスクワの先のヴォルガ川にいたるエリアをドイツ人の生存圏(レーベンスラウム)として、それを確保する方針を立てた。アドルフ・ヒトラーは、レーベンスラウムにドイツの農民を移住させて、そこに住むスラブ人をドイツ人に食糧や工業資源を提供する者(奴隷のような存在)とみなした。そこで居場所がなくなるのは独ソに分割されたポーランドにいる約350万人のユダヤ人である。ナチス・ドイツによるユダヤ人に対する迫害はこれまでもあったものの、それはユダヤ人を国外から追放することであった。しかし、レーベンスラウムに住むユダヤ人は追い出すことはできない。ユダヤ人がコミュニティをもって住み着いていたのは東欧だけであり、ヒトラーの目指す「judenfrei」(ユダヤ人フリー=ユダヤ人のいない世界)世界秩序のためにはユダヤ人を抹殺することが目的とされたのである。かくしてユダヤ人絶滅収容所がトレブリンカ、ソビブル、マイダネクなど各地に次々と建てられた。
 1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破って、ソ連に対する電撃戦を行う。対ソ開戦の理由は、欧州の穀物倉ウクライナを占領すること、自国の労働力不足を補うため、100万人~200万人の捕虜を獲得し、農業や工業面で使役することであったが、ヒトラーはこれをボリシェヴィキ=ユダヤ人を絶滅させる戦争とみなしていた。
 ナチスの初期の思想を広める役を担ったアルフレート・ローゼンベルクは、ソ連政府を支配する者は、農民に非ず、労働者に非ず、ユダヤ人に指導される最も過酷なる国家資本主義だとした。赤軍は全世界ユダヤ化の旗幟を掲げ、武装したプロレタリアの前科者を第一線に据え、欧亜両大陸諸国に内外から脅威を与えているとも述べた。ナチスの宣伝啓蒙大臣のヨゼフ・ゲッペルスは、いまやユダヤ人は欧州各国の文化を壊滅に導き、国際ユダヤ帝国建設のため、あらゆる手段と方法を尽くして蠢動している。各国民は世界の危機を救済するため、ボリシェヴィズムとの闘争を開始しなければならない。その火蓋を切ったのがヒトラー総統であると説いた。
 一方のソ連はどうだったのか。
 猜疑心と嫉妬心が異常に強かったヨシフ・スターリンは、古参の共産党や政府、さらには赤軍の幹部のなかに反逆を企てようとしている者が多数いるという強迫観念に囚われ、1937年~1938年にかけて、内部人民委員会麾下の秘密警察を動員し、自分の先輩や仲間も含むソ連の指導者たちを「人民の敵」として粛清していった。その数は、逮捕もしくは追放された将校が3万4301人。うち2万2705人が銃殺もしくは行方不明になったという。なかには赤軍の高級将校も含まれており、101人中90人が逮捕、うち80人が銃殺された(大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波新書)。
 そこへドイツ軍が雪崩を打って攻め込んできたのである。スターリンはそれを予測していなかった、というよりも、そのリスクにあえて目をつぶって、自国の軍隊を自らの手で脆弱にしていた。ドイツ軍は破竹の勢いでソ連に進軍していき、戦線は、北はフィンランドから南はコーカサスまで数千キロメートルに及んだ。

演技する民族

 そのときソロモン少年はどうしたのか。さらに逃げるのではなく、敵陣に向っていった。ドイツ人になりすましたのである。黒い帽子をかぶり、黒い服装を身につけ、ひげやもみあげを伸ばすといった「超正統派」と呼ばれるユダヤ人の風貌でなければ、ユダヤ人かドイツ人かの判断はつかない。ソロモンはユダヤ人が一番安心できるところとしてヒトラーユーゲントに志願した。反ユダヤの風潮が強まるドイツのなかで彼にとっての一番安全な場所だったのである。
 独ソは凄惨な戦闘を続けていた。開戦当初、ドイツは進撃を続けたが、ロシアの大地は広大だ。ドイツ軍は前線を広げるほど、いったんは敗走したソ連兵から背後を狙われた。後方からの補給も途絶えがちになり、ドイツ軍は徐々に疲弊していく。
 この間、国防軍兵士として招集されたソロモンも東部戦線に送られた。常に死と隣り合わせの世界で、ソロモンがつかの間の休息時に兵舎で行水をしていると、ドイツ人の戦友が現れて、身体を寄せた。同性愛者の彼はソロモンに好意を寄せていたのである。ソロモンは大慌てで腰にタオルを巻くが、戦友は呆然とした。ソロモンが割礼をしていたのを知ってしまったからだ。それは敬虔なユダヤ人家庭に生まれた男の子が受ける儀式だった。
 お願いだ、誰にも言わないでほしい。自分の出自を知られてしまったソロモンは懇願すると、戦友は頷いた。戦友にとっても身に危険をかけたカミングアウトだったからである。同性愛者はナチスにとってユダヤ人と並んで忌み嫌うべき存在とされていた。
 戦場で自分をさらけ出してしまった2人は、お互いの秘密を守ることを誓った。
 戦友は戦場に赴く前は舞台俳優をしていたという。ハムレット役を十八番にしていた彼に、「どうして役者に?」と問うソロモンには彼はこう語った。
 「他人を演じる方が自分でいるより楽だからさ」
 なんと象徴的な言葉だろう。
 独ソ戦は最大のターニングポイントとなるスターリングラードでの戦いに突入していた。瓦礫の山と化したスターリングラードの市街地で、ドイツ兵はソ連兵との白兵戦を繰り広げるも、極寒の冬に入ると彼らの戦力は確実に削がれていった。
 スターリングラードでの勝敗が決した際、ソ連からドイツへ降伏勧告がなされるが、この戦いを「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との世界観戦争とみなしているヒトラーに外交努力による解決という選択肢はなかった。
 ドイツの敗戦が濃厚になると、ソロモンは再び東部戦線の反対側へ寝返った。「ドイツで迫害されたユダヤ人」としてソ連に保護を求めたのである。再び敵前逃亡の逆をやったソロモンは戦後、ソ連の14~28歳までの男女を対象に、共産主義の理念による社会教育的活動を目的として創設された青年団体コムソモール(共産主義青年同盟)の優秀なリーダーとなる。そして1948年に建国されたイスラエルへ移住する。身分証明をとっかえひっかえしながら生き延びた彼が「自分でいられる」地であった。
 民族とはわれわれと他者を分ける排除の論理の上に成り立つ概念なのではないか。ソロモンはそれを逆手にとってサバイブしたのである。ところが彼ら、彼女らを受け入れた国であるイスラエルが過剰なまでに戦闘的になるのはなぜか。
 次回はその理由について考えてみたい。


 

映画『ヨーロッパ ヨーロッパ』のイメージポスターのひとつ。
ダビデの星が象徴的なデザインになっている。

 

 (参考書籍)
 大木毅著『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波新書
 (参考映画)
 アグニェシュカ・ホランド監督『ヨーロッパ ヨーロッパ~僕を愛したふたつの国~』1990年ドイツ・フランス

 

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