第12回:ホロコーストをめぐって 4(芳地隆之)

ワルシャワ・ゲットーからのメッセージ

 「あなたたちポーランド人は幸運です。……戦争が終われば、またもやポーランド国は存在しはじめるのです。都市はそれぞれ再建され、戦争の傷跡もいつかなくなるでしょう。この苦しみと屈辱、涙の海のなかから、かつてわれわれの祖国であったこの国が立ち上がります。ただそこには、もはやわれわれユダヤ系住民はいません。われわれの民族全体が消えてしまっているでしょうから」
 1942年8月、ポーランドで地下活動を行っていたヤン・カルスキはワルシャワ郊外のグローフフ区の空き家でユダヤ人レジスタンス組織の指導者である2人の人物と会っていた。一人はシオニスト団体、二人目はユダヤ人ブント労働者総同盟を代表する者だった。彼らは普段はワルシャワ市内にユダヤ人を隔離するゲットーに押し込められていたが、密かに脱出し、カルスキに会いに来たのである。
 カルスキは英国のポーランド亡命政府代表と祖国を何度か行き来しながら、ポーランドが置かれた状況やドイツの現状を報告するとともに連合国軍の動きなどの情報を収集していた。カルスキがユダヤ人レジスタンスと接触したのは、彼らからポーランドのユダヤ系市民全体の心情や懇願、遺言などを聞き、それを亡命政府ならびに連合国へ伝えるためである。
 冒頭はシオニストがカルスキに語ったものだ。ブントの方はこう言った。
 「われわれが望んでいるのは、ナチが進めつつある所業を前に、わたしたちは無防備であるということ、それを在ロンドンのポーランド政府ならびに全連合国政府に理解してもらうことです。絶滅戦は事実なのです。そしてポーランド国内において、私たちを助ける手段を持つものはいません。ポーランドのレジスタンス機関が救える人数はわずかでしかありません。……そして、まさにその点を世界は理解していません。……あちら側、ロンドンやワシントン、ニューヨークにいる人々は、おそらく大げさに騒いでいる、ヒステリー状態にあると思っているんです。……全連合国はそのすべてに責任を負わなければなりません。ユダヤ人への実質的な支援は、国外からしかありえないのです」
 その2日後、カルスキは2人の手引きでワルシャワ・ゲットーに潜入する。内部には死体が道端に転がっており、糞尿による悪臭が鼻をついた。死体が放置されているのは、その処理にお金がかかるからだ。身に着けているもののうち、まだ着られるものは家族によって脱がされていた。
 4カ月後の1942年12月、ブント指導者の手配でワルシャワから東へ160キロメートルのベウジェツという町にある収容所(イズビツァ・ルベルスカ収容所)にカルスキがウクライナ人看守に扮して入り込むと、そこに長距離列車が入って来た。近くはポーランド国内、遠くはオーストリアから5000人を上回るユダヤ人がぎゅうぎゅう詰めにされて運ばれてくる。到着すると貨車の床に撒かれた生石灰に水が加えられた。生石灰は化学反応を起こして泡立ち高熱を発する。ユダヤ人たちの濡れた肌は生石灰と接触することでたちまち水分をとられて焼かれてしまうのである。
 この世のものとは思えない光景を脳裏に刻んだカルスキはロンドンに向かった。

国内外の落差

 1942年9月、カルスキはワルシャワからベルリンを経てパリへ向かった。そこで地下組織のポーランド士官から新しいパスポートを渡され、リヨン、ペルピニャンに数日滞在した。フランスはナチス・ドイツの占領下にある。カルスキは、パリ陥落後、ロンドンに亡命し、自由フランス政府を立ち上げたシャルル・ド・ゴールの仲間で、フランス国内で活動する自由フランス軍に加わろうとする士官とその息子に案内され、ピレネー山脈を越えてスペインへ。バルセロナの英国総領事館に赴き、連合国の領土へ入国するために必要な書類をすべて受け取った。
 そこからマドリードに向かい、アルヘシラス行きの列車に搭乗。到着地からは漁船に乗ってジブラルタル海峡で活動する英国の巡視艇まで運ばれ、そこから米国の爆撃機リベレイターに乗ってロンドンに向かった。
 そこで2日間、カルスキが二重スパイでないことを明らかにするための英国諜報機関による徹底した尋問を経て、彼はポーランド亡命政府に引き渡された。
 それからは講演会、インタビュー、会議、報告の毎日である。カルスキはポーランドのレジスタンス運動が置かれた苦境やユダヤ人の虐殺について語り続けた。翌年に入ると、ポーランド亡命政府の首相であるヴワディスワフ・シコルスキ将軍、英国の外務大臣、アンソニー・イーデンと面会。シコルスキ将軍はカルスキからみると、連合国軍との連携を楽観的にみているきらいがあった。イーデン外相からは、話を終えて広い大臣室を出ようとした際、「この戦争で、ひとりの人間に起こりうるすべてをあなたは体験したようだ。ただひとつの例外をのぞいて。ドイツ人があなたを殺せなかったことだよ、カルスキさん。あなたに会えて光栄だ。幸運を祈る」との言葉をかけられた。しかし具体的な策の提案はなかった。
 ワルシャワ・ゲットーやイズビツァ・ルベルスカ収容所で目撃したことを語り、連合国の支援を求めたが、英国の高官たちの関心は薄い。彼らのみるポーランド軍の連合国軍への貢献度は低く、ドイツ占領軍に対する執拗な抵抗運動に評価は限られていた。カルスキは「英国は連合軍という巨大な歯車の軸であり、その歯車は数十億ドルにおよぶ軍事予算、爆撃機の大群、大艦隊、大きな痛手を被ってはいたがとてつもない陸軍からなっている。しかも人々は、ポーランド人の犠牲が、ソ連国民の驚くべき果敢さおよび多大なる犠牲とはたして比較できるのか、と疑問を抱いていた」ことを知るのでる。
 カルスキは連合国側とポーランドのレジスタンスの大きな温度差に失望を感じ始めていた。連合国のエリートのユダヤ人は自国への帰属意識が高く、近代国家の形成が遅れたため、国よりも民族への帰属意識が高い東欧のユダヤ人への共感がまったくといっていいほど伝わってこない。カルスキは、英国の新聞、議会、知識人団体、文学者、各協会からの要請で証言を行う際に使う高級乗用車、そしていつでも十分に供されるおいしい食事と、ナチス占領下による恐怖と飢えにさらされた祖国との落差に苦しむようになった。
 それでもカルスキは1943年5月、シコルスキ将軍に米国行きを命じられる。ロンドンを発って数週間後、自由の女神に見下ろされながらニューヨーク港に着いたカルスキは、米国要人に向けて自分が目撃したこと、体験したこと、国内レジスタンスの者たちがカルスキに託して連合国側に知らせようとした事実を訴えた。しかし、米国がポーランドやユダヤ人のために動こうという気配は感じられなかった。
 フェリックス・フランクファーター連邦最高裁判所裁判官はオーストリア出身のユダヤ系で、12歳のとき家族とともに米国に移住している。ルーズヴェルト大統領の側近中の側近である彼は、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を1942年9月に在米ユダヤ人協会会長のスティーヴン・サミュエル・ワイズから聞かされた。その後も同じくシオニズム指導者であるナウム・ゴールドマンからも念を押された。にもかかわらず、フランクファーターは自分の政治的影響力をそのために行使することはなかった。
 その状況でカルスキは同年7月28日、ワシントンのホワイトハウスで米国大統領、フランクリン・ルーズヴェルトとの面談に臨むことになったのである。

(参考書籍)
ヤン・カルスキ著・吉田恒雄訳『私はホロコーストを見た 黙殺された世紀の証言1939―43』白水社
(参考映画)
ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』2002年フランス/ドイツ/ポーランド/英国合作

ヤン・カルスキのことは新聞や雑誌で知る程度だったが、この翻訳が出たことで、彼が戦時中に体験したことの詳細を知ることができた

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