『怪物』(2023年日本/是枝裕和監督)

 カンヌ国際映画祭脚本賞、クィア・パルム賞を受賞するなど、公開前から話題を呼んだ是枝裕和監督の映画『怪物』を観た。
 舞台は大きな湖のある郊外の町。小学校5年生のクラスで起きた、いじめを思わせる子どもどうしのけんかとそれを巡る大人たちの姿が、母親の視点、担任教師の視点、子どもたちの視点の3部構成で描かれる。
 第1部では、息子・湊が担任の教師に暴力をふるわれているのではないかとの疑念を抱いた早織が、学校に乗り込む。国会答弁のような官僚的な対応を繰り返す学校側。いらだちをつのらせる早織はしだいにモンスターペアレントになっていく。果たしてこの母親が怪物か。ロボットのような表情の校長もなんだか怪しい。
 第1部では学校側の繰り人形のようだった担任の保利先生は、第2部では一転して明るい新人教師の顔を見せる。この人が怪物でもなさそうだし……。第3部では主人公の少年二人(湊と依里)とそのクラスの子どもたちのやりとりがリアルに描かれる。だれもが怪物であり、実は怪物なんていないと言っているような、いないような……。
 頭の中は〈はてな?〉でいっぱい。あれはどういう意味? あのあとどうなったの? 本当はどっちなの? 何が言いたいわけ? ともやもやが膨らんで、一目散に帰宅、パソコンを開けて検察すると「ネタバレ」「解説」「深読み」などがわらわらでてきた。あのシーンはこういう意味、あれはなんとかのメタファー、あの台詞の意味することろはなど、さまざまな解釈が飛び交い、かまびすしい。音楽を引き受けた坂本龍一は「今はすぐに『答え』を求める時代。安易に答えを出したふりもする。この映画は答えを出さずに開かれているところがいい」と感想を述べたそうで、ネット上の賑わいは、配給会社にとっては我が意を得たりというところか。

 「怪物」探しに行き詰まってたどり着いたのが、クィア・パルム賞の授与に当たり、審査委員長のジョン・キャメロン・ミッチェルが述べたコメントだった。曰く「世間の期待に適合できない2人の少年の物語は、クィアの人、馴染むことができない人々、あるいは世界に拒まれているすべての人々に力強い慰めを与え、命を救うことになるでしょう」。
 言うまでもないがクィア・パルムは性的マイノリティを扱った映画に与えられる賞だ。『怪物』は、思春期のジェンダーアイデンティティを巡る物語と理解すれば、腑に落ちる。だが公式サイトでは「圧巻のヒューマンドラマ」としか言っていないし、クィア映画であることをあえて隠しているようにも見える。ネタバレしないように? 性的マイノリティを扱った作品だというと、観客が減るから?
 是枝監督も「“そのこと”に特化したつもりはない……(ゲイとかトランスジェンダーとか、ある種の紋切り型にとらえるのでなく)成長過程に起きる誰もが感じるであろう内的な葛藤、自分……それを彼らは『怪物』と名付けてしまう、もしくは周りの抑圧によってそう呼ばされてしまう、そのことを描きたい」と語っている。
 なんだかすっきりしない。さらに検索を続けて見つけたのがジャーナリスト北丸雄二さんのコメントだ。ああ、そういうことか、やっともやもやが晴れた! 
 北丸さんはツイッターで、同性愛を扱った映画『青いカフタンの仕立て屋』についての、〈日本の映画配給会社には「ゲイ」「同性愛」「レズビアン」という言葉を使わない文化が根強くある。先日の『怪物』しかり。表象として取り扱っておいて、その対象者を不可視化する行為の愚かしさに1日も早く気づき改めてほしい〉というツイートを引用しながらこうつぶやいている。

こういうのってつまりはゲイの観客からゲイの物語に励まされる機会を奪っていることにもなる。ただでさえロールモデルが少なくゲイの他者の存在を知る機会が少ない青年期にあっては映画も重要な情報源。『青いカフタンの仕立て屋』がゲイテーマと知らなかったら敢えて観ようとしなかったかもしれない。
https://twitter.com/quitamarco/status/1673382564730671104

 さらに、こんなツイートも。

映画界だけではないのです。日本の報道でも、「ゲイ」「レズビアン」という言葉は登場しにくい。みんな「LGBT」という具体称ではない流行りの総称でまとめられてしまう。「XXさんはLGBT当事者」、わからなくはないですが、「レズビアンでゲイでバイでトランス当事者」だなんて無理。何、この曖昧化?
https://twitter.com/quitamarco/status/1673345467051126785

 また、〈映画「怪物」と日本社会〉と題した、ミュージシャンのダースレイダーさんとの対談動画の中でも、北丸さんは「これまでも日本の映画配給会社は、一般受けさせるためクィア映画であることを曖昧にして、普遍的な愛の物語として宣伝してきた。この『脱ゲイ化』により、性的少数者は可視化されず、タブー化され、その結果カミングアウトできないような雰囲気が作られた」と指摘している。
 クィアな色合いを薄めて、一般的な成長物語の中に溶け込ませようとしているかにも見える作為への違和感――それが私が抱いていたもやもやの正体だったのだ。

 「薄めている」といっても、この作品中に織り込まれているクィアへのメッセージは、実に巧妙で暗示的だ。
 シングルマザーの早織は、息子に「ラガーマンだったお父さんのように強い男になって、結婚して子どものいる普通の家庭を作ってほしい」と願っている。それを受け入れられない息子の複雑な表情、不可解な行動。
 どことなく「女の子」っぽい依里の父親は、「おまえの脳みそは豚、病気だから治してやる」と、暴力をふるう。
 保利先生も生徒を指導する際、ごく自然に「男らしく」とか「男の子だから」というフレーズを使う。それが二人の男の子の心に、どんな影を落とすのか……。
 未成年のジェンダーアイデンティティというデリケートで扱いが難しい、しかし極めて今日的で重要なテーマにこの作品はどう向き合い、どう表現したか。BL漫画ならともかく、生身の子役が演じるのだから、よほどの配慮が必要だっただろう。
 その点について是枝監督は「LGBTQの子供たちの支援をしている団体の方に、脚本を読んでいただいたり、演出上どういう風な注意点があるかということをお伺いしながら、描写については現場にインティマシー・コーディネーター(性的な描写において俳優の尊厳を守る立場で制作に関わる専門家)の方にも入っていただいた」と語っている。
 配給会社の宣伝戦略はともかく、制作者としてはクィアなテーマを薄めると言うより、象徴的に暗示的に、節度と温かいまなざしを持って描いたのかなと、思い直したりもしている。
 最後に、二人の男の子が互いを好きになるというストーリーについて聞かれた、主役の少年・湊を演じた黒川想矢さんの言葉を。
「(男の子が)男の子が好きっていうことは、僕はまだ聞いたことはないのですが、実際湊を演じてみて(相手役の)依里のことを本当に好きになれたし、どんな状況でも、りんごが好きなように男の子も好きになれるんじゃないでしょうか」。
 つい構えてしまう大人を尻目に、こんなふうにさらりにと答えられる若い世代のみずみずしい感性に救われる。

(田端薫)

映画『怪物』公式サイト
https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/ 

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!