「人権を守る」のは「優しさ」や「思いやり」ではない〜伊藤真先生のお話から(西村リユ)

 先月、国分寺市で開かれた、伊藤真先生の講演会に行ってきました。同市在住の元小学校教諭、山崎翠さんの著書『絵本で感じる憲法』(大月書店)の出版を記念して開かれたイベントです。
 山﨑さんは、長年自宅で「なかよし文庫」を主宰し、子どもたちへの絵本の読み語りを続けるとともに、憲法学者だった亡き夫の意思を継いで、勉強会「市民憲法教室」を運営されてきた方。今回の著書は、数十冊の絵本を通じて日本国憲法のメッセージを読み解く内容で、副題に「ありのままのあなたが大切」とあるように、中でも憲法13条にある「個人の尊重」が重要なテーマとなっています。

 伊藤先生の講演も、この「個人の尊重」をメインテーマとして進められました。少年時代に海外生活を経験したこともあって、周囲からしばしば「変わった奴」と言われるなど、人との「違い」について考えることの多かったという伊藤先生。「すべて国民は、個人として尊重される」という憲法13条の条文と出会ったときには、「人はみんな、それぞれに違っている。それでいいんだ」と言われているように感じたといいます。そしてそこから、「『個人の尊重』こそが、憲法の根幹にある精神だ」と考えるようになったのだそう。
 一番印象的だったのは、伊藤先生が「多様性への理解は、意識して学習しなければ身に付かないもの」だと強調されていたこと。自分と異なる人に対しては本能的に不安を感じ、無意識に偏見を抱いてしまうのが人間というもの。だからこそ、「自分が偏見を持っている」ことをきちんと意識し、乗り越えなくてはならない──。「人権感覚というのは、単なる『優しさ』や『思いやり』ではありません。自分の中の差別の意識を、学びと経験、知識や努力によって必死に乗り越えて、初めて得られるもの。無意識に身に付くような簡単なものではないのです」という言葉に、目を開かされる思いがしました。
 すぐに思い浮かんだのは、被災者や犯罪被害者、生活保護受給者など、いわゆる「弱者」といわれる人たちが権利を求めて声をあげると、たちまちその人たちへの「バッシング」が巻き起こるという、近年しばしば目にする構図でした。そうしたことが起こるのは、私たちの社会が「人権とは、優しさや思いやりの問題ではない=『かわいそう』に見える人であってもそうでなくても、当然等しく人権は保障されるべき」という共通認識をまったく持てていないことの表れといえるのではないでしょうか。
 また、「子どもと教科書全国ネット」代表委員の鶴田敦子さんへのインタビューでお聞きした、今後全国の小中学校で使われることになる道徳の教科書が、「さまざまな問題を、その背景となる社会の仕組みなどに言及せず、『心の問題』に矮小化している」という指摘も思い出しました。それもまた、人権が「優しさや思いやりの問題」とはき違えられていることの証左といえるように思います。

 「どんな人でも人権を保障されるべき」とか、「誰にでも尊厳はある」といった言葉は、ときに「甘ったるい理想論」のようなとらえ方をされがちです(その傾向は、特に最近強まっているように思います)。けれど、自分とどんなに考え方の違う人でも、どんな悪人(と思える人)であっても尊重する、というのは、本来はそんな楽なことではない。自分の中の偏見や差別意識と常に向き合い、それを乗り越えていくことは、むしろとても困難で、シンドイことのはずです。
 だからこそ、私たちは単に「思いやりの心を持ちましょう」「周りの人に親切にしましょう」とお題目のように唱えるのではなく、知識を身に付け、偏見を乗り越えるための学びを意識して重ねていかなくてはならない。それがまさに、憲法12条にある(自由や権利を守るための)「国民の不断の努力」なのだろうと思います。
 「個人の尊厳を守るというのは、軽々しく口にできるような簡単なことではないのです」。伊藤先生の、穏やかだけれど厳しい言葉に、身が引き締まる気がした一日でした。

(西村リユ)

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